Kyoukasyo Mondai [oboegaki1]

覚 書

筒井康隆

 過日(一九九三年七月十三日)、来春より高校で使用される「国語I」に掲載の小生の作品「無人警察」について、日本てんかん協会より「てんかんへの差別を助長する表現がある」として、文部省に対して検定合格の取り消し、出版した角川書店に教科害からの削 除または販売中止を求める声明文が発表され、同じ主旨の記者会見がなされたことについて(以上は新聞各紙の報道による)、作者としての思うところを述べさせて戴きます。
「無人警察」における、てんかんに関して記述した部分は次の通りです。
「(未来社会において、巡査ロボットは)てんかんをおこすおそれのある者が(車を)運転していると危険だから、脳波測定機で運転者の脳波を検査する。異常波を出している者は、発作をおこす前に病院へ収容されるのである。(中略)でも、わたしはてんかんではないはずだし、もちろん酒も飲んでいない。何も悪いことをした覚えもないのだ。」
 新聞の報道によれば、これに対する声明文の内容はおよそ次のようなものです。
(1)「てんかんを持つ人びとの人権を無視した表現であり、てんかんを取り締まりの対象としてのみ扱っている」
(2)「脳波に異常があっても発作をおこさない人がいるし、健康でも異常波が出る人もいる。事前に発作がチェックできるという予断と偏見に基づいた記述で、医学的にも誤り」
(3)「自動車の運転についても、日本では認めていないが、欧米では認めている国もあり、時代遅れの考えを述べている」
(4)「(『悪いことをした覚えもない』の文章は)てんかんが悪いことのように書かれている」
(5)「てんかんを持つ高校生や、近親者にそうした人がいる場合、どのような思いで授業に臨まなければならないか考えてほしい」
 まず、この作品において、小生がてんかんを持つ人を差別する意図はなかったことを申しておきます。むしろてんかんに関してはある想いがあり、小生、過去に堀一というてんかんの友人がおりました。国民学校1年から4年まで、ほんの二ブロックほどのところに住む友人としてたいへん仲良くしておりました。小生は転校しましたが、彼はその後、家(大阪市東住吉区山坂町)の近くの大和川の橋の上を歩いていて発作をおこし、転落して溺死しました。このことは今でもしばしば彼のことを夢に見るかたちで胸に重く残っております。
 ただ、やはりそのことと今回のことは一応無関係のこととして考えねばならないでしよう。4. にあります、「取り締まりの対象としてしか考えていない」というのは、実はその通りかもしれません。この作品ではてんかんを、まさに運転に適性を欠く者としての取り締まりの対象と限定して書いているからです。なぜそのように書くに至ったかを述べます。
 この作品は最初、朝日新聞社発行の「科学朝日」(一九六五年六月号)に掲載されたものです。小説とはいえ科学雑誌に載る以上は基本的に科学的正確さが要求されます。実はこれを書くに先立ち、小生は大阪大学付属病院の精神・神経科を訪れてルポルタージュを書き、「科学朝日」とほぼ同時期、「SFマガジン」(一九六五年五月号)に「精神病院ルポ」として発表しています。「無人警察」の記述はその折の調査をもとにしてねります。参考のため、「精神病院ルポ」の該当箇所を付記します(筒井康隆全集(1)より)。

 いささかふざけて書いてはおりますが、つまり当時はこのような社会的状況だったわけであり、こうした状況が現在改善されたということを小生は聞きません。社会的な問題として書いたルポでしたが、この問題は現在でも社会的な問題になり得ると考えております。てんかんに対する差別糾弾が激しくなった現在、てんかんを持つ運転者が事故をおこしていながら、新聞などに乗らぬ事例は「無人警察」執筆当時より増加しているのではないかと、あながち推測だけではなく、単に「事故当時意識を失っていた」とのみ書かれた新聞記事などから考えられるからです(ちなみに、今回のてんかん協会の抗議に関して、新聞2社、通信社1社より、作者のコメントを求める電話がありましたが、この覚書とほぼ同じ内容の小生のコメントはどこにも載りませんでした)。
 重ねて申しますが、是非ご理解戴きたいのは、てんかんを持つ人に運転をしてほしくないという小生の気持は、てんかん差別につながるものでは決してないということです。てんかんであった文豪ドストエフスキーは尊敬するが、彼の運転する車には乗りたくないし、運転してほしくないという、ただそれだけのことです。列車や車の運転には適性があり、これはてんかんを持つ人に限りません。たとえば小生は車を絶対に運転しませんが、これは小生が極めて短気であり、怒りっぽいからです。要はてんかんでありながら運転を職業にしている人に対する社会保障の問題でしょうが、ここはそれを論じる場ではありません。
 次に(2)についてですが、例外はどこまで並べ立てても例外ではないでしょうか。大多数の患者の発作時、及び発作間歇時において常脳波が見られる以上、極く稀な例外をもって誤りと断定することには無理があり、特にそれをもって車の運転を可とするような論旨には賛成できません。「事前に発作がチェックできる」という設定は、これが未来社会の話だからであり、これを「予断と偏見に基づいている」とするならば、すべてのSFは予断と偏見に基づいていることになります。現在においてこれが「医学的誤り」であることは言うまでもないことです。作品の欠点をできるだけ多く数え立てていこうとすれば、最後に近づくほど言いがかりに近づいていくことは、文芸の世界でも感情的な「ためにする批評」に多く見られるところです。
 また車の運転が「欧米では認めている国もある」が故に、作者の考えが時代遅れであるとする(3)の文脈からは、この日本てんかん協会が「てんかんを持つ人にも車の運転をさせよう」という運動をしている団体のように読み取ることができ、もしそうであるならば、これは小生、由々しきことと考えます。運転以外の職であれば、発作はたいてい当人だけのこととして終わりますが、運転は他人の生命にかかわる大きな問題であり、てんかん差別をなくすために健康な者に対して自分の生命の危険を無視せよと要求する権利はありません。
 新聞の記事からは、この「時代遅れ」ということばが、てんかんに対する作者の考え方全部に向けられているようにも受け取れました。小生は専門家ではありませんので、あるいはてんかん医療に関する新しい知識が不足しているかもしれません。二十九年前に執筆した作品が時代遅れになっていることは充分考えられます。小説は書かれた時からのち、どんどん時代遅れになっていく運命にあります。文庫収録、全集収録に際して、時代遅れになった記述を書き換える作家もいますが、小生は他の大多数の作家同様、そういうことはいたしません。小説は時代の産物であり、歴史の記録、歴史的証言でもあると考えるからです。
 (4)に関しては、言うべき言葉がありません。中略とした部分を含めて、全体の文脈の中で判断していただければ、「悪いこと」がてんかんを指しているのでないことは明瞭です。なぜ、小説を読む能力に根本的な欠陥があるふりをしてまでのこの言いがかり」なのかと思い、小生がいちばん腹を立てた主張です。
 (5)に対しては、結局文学論で答えるしかありません。小説は、作家がそれをひとつ書くたびに必ず誰かを傷つけているという芸術形式だからです。作家がひとり世に出れば、通常その周囲は死屍累々、特に日本の私小説などでは多く家族親戚を傷つけ、他人を傷つけ、そのことによって本人も傷つきます。欧米では小説のこうした不可避的な機能を逆手にとったブラック・ユーモアの伝統があります。そして小生は十七世紀のイギリス、スゥイフトの著作にまでさかのぼることのできるこのブラック・ユーモアという文学的伝統を守ろうとしている作家のひとりです。ご存じのようにブラック・ユーモアというのは、人種差別をし、身体障害者に悪辣ないたずらをしかけ、死体を弄び、精神異常者を嘲り笑い、人肉を食ベ、老人を組り殺すといった内容を笑いで表現することによって説者の中の制度的な良識を笑い、仮面を剥いで悪や非合理性や差別感情を触発して反制度的な精神に訴えかけようとするものです。しかし今回問題となった「無人警察」という作品は、教科書に収録されただけあって小生の作品の中では比較的ブラック・ユーモアの毒の薄い作品です。強いて言えば管理社会の国民に向けられる代表的な顔としての警察官に対して毒の矢を放っていると言えますが、その毒の効果を倍加すべき「笑い」は皆無です。したがって、もしこの「無人警察」が糾弾されるのであれば、小生の他の多くの作品はより強く非難され糾弾されてしかるべきでしよう。
 尚、一部の新聞には、てんかん協会が「筒井氏には作品を収めた文庫や全集の回収を求める」という記事が載りましたが、小生に対する抗議は7月24日現在まだないので、このことについては触れません。

付記
 この一文は、文部省と角川書店教科書編集部との会議に際し、作者の意見として参考にして戴くため、書いたものです。この件の経緯を知っておいて戴くため、各新聞社・通信社及び関係出版社に送付させて戴きました。

(社団法人日本てんかん協会機関誌「波」第17巻9号 1993年9月掲載、原文は縦書き。ホームページでの表示の制限のために傍点部は斜体に変えた。)


Last Updated Dec.8.98
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