てんかんと作業所

  1. 作業所設立までの働く場に対する試行錯誤一なぜ作業所が必要だったか一
  2. 設立に関わった人達の願いと働き一それぞれに応じた働く場を一
  3. 作業所から親子が得たもの一作業所ができるまでとできてからの親と子の変化一
  4. 行政の窓口はどこ?一制度・計画に含まれることの必要性一
  5. 作業所の仲間達
  6. 仲間に合わせた仕事づくり
  7. 仲間の給料
  8. 仕事を通しての仲間づくり
  9. 仲間自身によるミーティング一利用者主体の作業所をめざして一
  10. 仲間どうしのつながりを大切に一一人一人の個性が考慮され、人が人のなかで認められる集団づくり一
  11. 作業所から就職へ 一のぞみ共同作業所の試み一
  12. てんかんの人の多様な働く場の必要性と全生活の支援を(最終回)
てんかんと作業所について、日本てんかん協会機関誌「波」1999年4月-2000年3月号 まで12回連載された記事です。この特集についてのご意見ご感想を メールでおよせ下さい。
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てんかんと作業所1

作業所設立までの働く場に対する試行錯誤

一なぜ作業所が必要だったか一

ひかり作業所分場あかり 岡本 朗


[福岡県支部での就労の取組み]
 全国のてんかん協会の各県支部同様、福岡県支部にも就労についての相談が数多くよせられます。 「職場での発作」「発作を理由の解雇」「発作を起こし職場での人間関係にトラブル」「職場への発作の 告知」などてんかんの発作が直接の原因だったり、職業能力の問題や職場での人間関係といった二次的 な原因の場合もあります。

 解雇されても次の仕事を見つけながら職をつないでいく人もいますが、在宅となっていく人も多くい ます。ほとんどの場合、公的な相談機関を利用することもなく、ましてやてんかんの専門の相談窓口も なく本人や家族は悩みてんかん協会の存在を知って相談をしたり、公的機関からてんかん協会を紹介さ れる場合もあります。

 福岡県支部では事業主との連携で雇用の場の確保を目指し、支部独自の事業を取り組みました。ひと つは「てんかんの人の雇用をよびかけるパンフレット」を作り中小企業家同友会を通して広く配布をお こないましたが、求人はありません。また、独白の雇用援助のための基金を設置し一定期間の給与の貸 付をおこない、職業訓練から雇用につなげようとしました。しかし、どれもうまくいかず雇用につなが りません。事業主から「挨拶返事ができない」「仕事の能力が低い」「一つ一つ言わないと仕事がで きない」「仕事の能力は低いが要求は高い」と言われ「てんかんの人は難しい」「どう接していいか分 からない」と言う話が聞かれました。主な原因は発作だけではない課題があること、事業主が援助の仕 方や障害の受け止め、てんかんの人が持つ問題の理解ができないことが大きかったようです。

 こうした支部の雇用援助の中で、在宅からの一般就労の難しさ、てんかんの発作だけに目を向けてい ては雇用につながらないことが分かりました。一般雇用につなげていくためにも福祉的援助の働く場が 必要ではないかと支部の中で整理し、てんかんの作業所作りが始まりました。

[あかり作業所の利用者で在宅となっていた人たち]
 あかり作業所に通う人の多くは知的障害が軽度だったり、ボーダー層だったり、知的障害を伴わない 人もいます。小学校、中学校、高校、専門学校、短大と学校生活を送ってきました。親、本人は「発作 さえ止まれば」「卒業しても何とか就労ができる」という願いのなか、発作の抑制ができず社会性、対 人関係の弱さもあり卒業をむかえても進路の保障はありません。

○卒業をして就労経験なく在宅となった人。
○職業前訓練として障害者職業センターのワークトレーニング社での職業訓練を受けた人たちが4名い ます。一人は職場適応訓練の対象となり食品加工会社で働きましたが、人間関係のトラブルと仕事にも ついていけず身体症状を訴え訓練途中で辞めてしまいました。他の3名は就労が難しいと判定を受け障 害者施設を進められ在宅となっていました。
○家族の縁故でアルバイト雇用をした人、親と一緒に知り合いのところで働いた人、給料はいらないか らと頼みこんで仕事に行った人もいます。
○就労の経験がある利用者も発作をおこし解雇されたり、対人関係のトラブルや職業能力の低さから仕 事についていけず発作があることを理由に解雇されました。どの人も雇用につながらず在宅となってい ました。

 発作以外見ると、対人関係の問題では挨拶や返事ができない、仕事中に一方的な会話が多い、従業員 との協調性に欠けるなどがトラブルの原因になっていたようです。

 また、職業能力の問題では巧緻性に欠けたり、作業スピードが遅かったり、一つ一つの作業はできて も見通しをもった作業ができず常に指示が必要だったりします。本人や家族が思っている職業能力と、 実質の能力との差が大きく本人が仕事に満足できなかったり、仕事への要求が高く不満が生じることも あります。

 こうして就労ができず在宅になると
○在宅が長くなり昼夜が逆転し家族との会話もなくなり、外出することもなく、着替えや身の回りのこ とにも構わなくなり、部屋で大きな声をだし「死にたい」「なんのために生きているのか」と親に訴え た利用者もいます。
○てんかんの発作だけでなく心因的な発作、様々な精神症状(うつ症状、幻聴、妄想等)がひどくなり、 母子で悩み苦しんでいた利用者もいます。
○家事の手伝いをして過こしても、家族以外の人と接することが少なくなり様々なことに対して意欲が 低下し、親への依存が強くなり先が見えない不安を家族も抱えていたケースもあります。

[施設から在宅となっていた人]
 てんかんがあっても知的障害が主たる人の多くは福祉施設を利用しています。あかり作業所の利用者 のようにてんかんが主たる障害の人を対象にした施設はありません。そうした人たちは行き場がなく在 宅の生活を送るか、発作症状が重度の場合入院しかありません。
○知的障害が重度で発作が頻発し一日に小発作が数十回あり、介護なしでは生活ができない程の人がい ます、発作が多いため中学校を卒業しても高校への進学ができず、通所授産施設に通うようになりまし た。通所しても発作が続くと家族の呼び出しがあり帰宅しなければなりません。仕事は危険を伴わない もので本人が満足するものではありません。発作があると精神的に不安定になりパニックを起こした り、妄想状態になることもあります。発作で転倒し大けがをしたことで施設に行かなくなり在宅となり ました。自己中心的になり家族にも暴力を振るったり、発作への嫌悪が強くなるとパニックを起こすよ うになりました。
○知的障害が中度で養護学校卒業後、適所授産施設に通っていた人がいます。発作と体調の不安定さで 決められた時間の通所ができず施設にいっても心因性の発作をおこしたり、体調の悪さを訴え集団での 生活が困難になり施設に通えなくなりました。家庭では不眠を訴えたり自分の思い通りに行かないと家 を飛び出そうとしたり、母親に対して暴力を振ったり自分から入院を望んだりと家庭での生活が困難に なっていました。

[作業所の必要性をどう考えたか]
 就労の取り組みでのべましたが、福祉就労の場としての作業所の必要性と、あかり作業所の利用者の 多くが在宅となっていたように在宅から社会へつなげる場としての作業所の必要性を考え作業所づくり をスタートしました。

 てんかん発作があるという共通性があっても、発作も様々なように一人一人の抱える障害も様々で課 題や問題も様々です。本人や家族はてんかんの発作に目をむけがちですが、生活上の障害や職業能力の 障害にも目を向けていかなければなりません。本人や家族が抱える様々な悩みを理解し、てんかんを持 つ人が安心して通える場、自分にあった労働の場、仲間や職員との交流できる場が作業所の大きな意味 と考え、93年に作業所準備会を設立し、94年の4月に全国でも初めてのてんかんの人を対象にした作 業所として開所しました。

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てんかんと作業所2

設立に関わった人達の願いと働き

一それぞれに応じた働く場を一

(社)日本てんかん協会福岡県支部元代表 熊丸 恭子

[親の願いと本人の無関心]
 てんかんをもつ人々を中心にした本格的にてんかん協会の支部が取り組んで作業所が開設されたの は、1994年4月福岡県支部とひかり共同作業所の協力で出来た「第5ひかり共同作業所あかり」でした。

 当初作業所づくりに参加した親たちは、当然のことながら福岡県支部の会員が中心でしたが、親たち の考えの中に「作業所」というイメージははっきりと描けていたわけではありません。子供達の多くは 発作と闘いながら何とか小学校・中学校・高校と普通学級に通い、専門学校・短大へと進学した人もい ました。親も本人も「これまで何とか来れたのだから卒業後もどこか就職できる」と思っていました。 ところがそれから先は全く行き場がなく、毎日仕方なく家に居るしか有りません。「発作の抑制」に気 をとられ「自立」に必要な大切な事が二の次になっていたのです。知人縁故を頼って就職しても長続き せず、家族に当たったり、自分の殻に閉じこもったりしてどうすることも出来ませんでした。

 本人たちも「発作」さえ止まれば就労出来ると思っていますので「障害者のための作業所」は、自分 たちが行く所ではないし、絶対行きたくないと思っていた人も多かったようです。

 当時てんかんの人の福祉施策はまだ何も無い時代でした。親の会では毎回発作の苦労話や子供達の将 来の心配などを話しあい励ましあってきました。しかし回を重ねて話し合ううちに、てんかんの発作が 有ってもそれぞれの力に合った働く場が出来ないものだろうかと思うようになって行きました。子供達 が「生きていて良かった」と思えるような、そして「安心して通える所」をといった漠然とした親の願 いが「作業所づくり」という具体的なかたちを示された時に、大きな力となって行きました。

[秋元波留矢先生やひかりグループの励まし]
 一方、福岡県支部では就労についての相談に対して、できる限りの情報を提供するだけでなく、職場 適用訓練、ワークトレーニング、職業訓練校、職親、などの利用を支援したり、職親を開拓して雇っても らったり、支部独自に作った就労促進事業などを試行したことも有ります。こうした雇用支援の中で、 失敗を繰り返しながら何とか一般就労へつなげていった人達もありますが、どうしても福祉的援助なし には働くことができない人達にとって、「作業所」が必要だという確信を抱いていました。

 その頃福岡市では共同作業所の草分け的存在だった「ひかり作業所」と「てんかん」についていろい ろと情報交換をしたり、会員を作業所に受け入れてもらったりしていました。しかし身体障害者や知的 障害者が中心の作業所でしたので、てんかんの人への処遇は手探りの状態でした。そんな時に福岡市で 共同作業所全国連絡会の全国集会が開催され(1993/5)福岡県支部の働きかけで初めて「てんか ん」の分科会を持ちました。分科会には全国から約80名余りの人達が集まり、作業所でのてんかんの 人々への処遇の報告や当事者の意見発表が有りました。この時、助言者として来ていただいた秋元波留 矢先生(日本てんかん学会元理事長・共同作業所全国連絡会顧問)には、「とにかく行動に移すことで すよ!」と励まされ、「てんかんを対象にした作業所」作りに踏み切ることが出来ました。ひかり作業 所グループとの共同事業とし、93年7月準備金発足、94年4月「第5ひかり共同作業所あかり」を開所し ました。

[作業所の職員]
 作業所づくりで最も難しいのが職員選びです。
(1)「てんかんの人を対象にした作業所」として旗揚げしたのですから、職員はてんかんについての理解 が一定程度あることや、社会参加を阻害しているのは発作だけではなくさまざまな問題をはらんでいる こと等の理解が必要でした。
(2)「ひかり共同作業所」の傘下に入ることで処遇や運営について助言を頂き、職員は家族以外の専門職 があたるのが望ましいということになりました。

(1)(2)の条件を満たしたのは、その数年前から支部の役員をしていた岡本朝さん(現・「あかり作業所」 所長)しかなく、大変無理なお願いでしたが引き受けて頂きました。当時岡本さんは知的障害児の通園 施設に勤務しておられ、専門職の立場で積極的に支部活動に参加しておられました。無認可の小規模作 業所で支払える給料はそれまでの岡本さんの給料の半分くらいしかありませんでしたから、ご家族のご 理解に改めて感謝しています。不安なスタートでしたが、多勢の方から支援を頂き支部独自に積み立て ていた基金から給与の補填をしたのも初年度だけで、3年後に認可(分場)にこぎ着けることが出来 ました。

 岡本さんも当初は職員がたったひとりしか居なかったことや成人期の人への対応など「不安がいっぱ い」と言っておられましたが、ひかりグルーブの支援や運営委員会での議論、そして家族や沢山のボラ ンティアに支えられ、無くてはならない作業所へと成長していきました。

[支部の役員と作業所設立準備会の動き]
 福岡県支部の役員構成は他県支部と同じような構成と人数です。特筆するならばいろいろな立場の人 がバランス良く参加していることかも知れません。支部の世話人会や事務局会議(役員会議)はかなり 前から定期的に開き、民主的運営を心掛けて来ました。

 支部での就労支援の取り組みの中から、てんかんの作業所作りが確認されてからは「作業所設立準備 金」を新しく組織しました。構成は支部の代表、副代表(岡本さん)、事務局長、適所希望者の親の代 表(2名)、ひかりグループ代表、他の障害者団体から専門職(2名)親(1名)、と身内だけになら ず障害者問題に詳しい方にも入って頂きました。作業所開所までの約半年は毎月1-2回全員が集まれ る夕方から夜遅くまで、資金対策、補助金の申請、建物の設計等々あらゆる事を話し合ってきました。 (開所後は準備会が運営委員会へ移行し、新たに医師も加わって通所者の処遇等も職員と共に検討しま した。)

[準備会の活動一資金づくりと場所の確保]
 準備会の仕事は先ず資金集めです。「全ての障害者に働く場を!」と20年近く作業所運動を市民運動 として築き上げてきた「ひかりグループ」の傘下に入って、私達も「発作があっても仕事がしたい」と 知人友人は勿論広くマスコミに訴え、てんかんの作業所建設基金募金活動を始めました。(写真は家族 総出で街頭募金)この時は日頃お世話になっている病院の先生方をはじめ福岡てんかん懇話会・日本て んかん学会の先生方にもてんかんのリハビリテーションを訴えて全国から寄付して頂きました。資金 集めと平行して、作業所の場所探しに苦労しました。幾つか候補は有ったのですが、最終的には土地を借 りて新築することになりました。作業所の場所が決まると、運動は現実味を帯びて急速に盛り上がって きました。資金集めと地域への理解を求めて「バザー」をすぐ近くの保育園を借りて開催しました。全 国でも初のてんかんの作業所ということで、バザー品を遠方から送って頂いたり、"自分もてんかんに 苦しんでいます"と手紙が添えてあったり、小銭の入った貯金箱が送られてきたり、てんかんをもつ 人々の苦しみを垣間見るエピソードが沢山有りました。94年2月、極寒の中でのバザー品集めや植付け 作業は大変でしたが、親を中心に「作業所を作りたい」という一心で乗り切って来れたのだと思います。

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てんかんと作業所3

作業所から親子が得たもの

一作業所ができるまでとできてからの親と子の変化一

ひかり作業所分場あかり 城山佐和子

[在宅の子供を抱える親の気持ち]
 てんかんをもつ親なら誰しも「発作さえ止まれば・・」「なんとか発作を少なくしてやりたい」と、発 作の治療に必死になるでしょう。だけどどんな治療を受けても、今の医学ではどうしても発作がとまら ない難治てんかんの人もいます。学校を卒業する頃になっても依然として発作は止まらず、専門学校や 短大まで出ても就職先はない。行き場がなくて在宅となった我が子がどんどん社会生活から遠ざかって ゆくのをみて、「どうしてよいかわからない」と支部に相談に来られた親が何人もいました。

[過保護と言われ続けて]

 作業所に通い始めた頃、親の方が記した文章がありますので掲載します。

 早いものです。作業所に通い始めて3か月が過ぎました。こんなに早く作業所に行けるとは 思っておりませんでした。

(中略)

 「僕は絶対に行かないからね。お母さんの言うなりにはならない。」と言ってはぷいと怒り、 何日も口をきかなかったことが信じられないくらい、今は元気に通っております。高校を卒業 し、専門学校の途中で薬の副作用のため入院生活。その後は白毛にこもりきりで5年近く家に いたことになります。その間親戚での手伝い、内職とかはやっておりましたが、私がぺったり いつも一緒でした。「こんなことぱかりしてたらこの子の将来は…」と毎日胸のつかえがおり ない日々でした。本人も少しずつ外出しなくなり、外食に誘っても行かず、ましてお客様が来 ても顔を出しません。親戚の所に行く日も一人留守番です。社会生活から遠のくぱかりです。 家にいれば祖父母や私に当たる日々もありました。気持ちのはけ口がないのです。

(中略)

 家にいるときは、何日も髭は剃らず同じ服を着ていました。それが作業所に行くようになり、 着替えもするし、髭もちゃんと剃るようになりました。表情も前より明るくなり、口数も少し ずつではありますが多くなってきました。仲間のこと、ボランティアの方、そして職員さんの ことなど、今までにない会話が生まれます。

(中略)

 子供も行ける所があり、居場所があり、話をする所があり、その話を聞いて下さる方があり、 仕事があり、仲間がいて、今までにない経験をして、ゼロからのスタートだと思っております。


 今の手記の中にもありましたが、在宅が長くなると、社会からだんだんと遠ざかった生活になってい きます。親は病院や福祉事務所、その他に相談に行きますが、子供が社会性を身に付けていないことを 「過保護だ」と責められる事が少なくありません。親の方は「発作があるので手を出さなければ危なく て仕方がなかった」「自分が手を指し延ばしていなければ死んでいたかもしれない場面も何度かあっ た」と言います。

 実際、作業所の利用者の中には、成人期を迎えた今でも、親と一緒にお風呂に入っていたり、親と同 じ部屋で寝ているという人が多くおり、子供の行動の一つ一つを親が注意深く見守る生活が非常に長く 続けられている事がわかります。そうやって必死に子供を守ってきた子育てを「過保護だ」と言われ、 親の方は大変傷ついておられたようでした。

[作業所は何を受け止めたか]
 作業所では、利用者(以下仲間)の「今あるがままの姿」を受け止める事から始めています。確かに 作業所に来る仲間たちは、一般就労をするには様々な困難をもっています。しかし、一般就労では「仕 事に合わせる事」が求められますが、作業所では「仲間にあった仕事作り」を行います。ですから、 職員は、仲間ができないことを問題にするよりも、仲間の困難がどこにあるのかを探り、そこを援助す る方法をみつけていくことに力を注がなければなりません。

 「過保護だと言われ続けた」ある親は、『作業所に行き始めて「親の責任は終わった」と言われ、必死 にやってきた結果として息子のありのままを受け止めてもらえ、救われた気がした』と言っておられま した。

 作業所は「働く場」で「訓練の場」ではありません。成人の一人の大人として、今までの生活とそれ によって身に付いたそれぞれの習慣は尊重すべきだと考えています。ですから作業所が今更「親のしつ けをしなおしてくれ」と言うことはありません。仲間たちには家庭とも学校とも違う「作業所」という 職場で、新しい人間関係を築き、新たな出発をしてほしいと願っています。

[親の気持ちの変化]
 続いて、99年2月のてんかん作業所交流会で作業所の仲間が発表した文章です。

 僕はあかり作業所に来る前にいろんな所に行っていました。

 ワークトレーニング社で2か月訓練を受けた後、実習でビンの仕分けに行きました。十日目 ぐらいに、昼休みにきつくて昼寝をしていて、寝過ごしてしまい首になりました。朝7時30分 の出勤で、その時は僕は朝がだめだったから、朝、早起きして行くのは大変だった。

 次はもっと家から近い、豆腐屋で働くことになりました。豆腐屋では、自分の好きな政治の 話をしても、パートのおばさんたちに聞いてもらえず、又、右から左へ次々と洗い物が流れて きて、トロイと言われました。上司の目はきつく、とうとうバテて、神経的にダメになり、ト イレにしょっちゅう行くようになりました。次に行ったのはコピー会社で、母の知人の社 長の紹介で入社しました。

(中略)

 手取りで14万円もらったこともあったけど、普段は仕事はあまりなく、職場の人ともほとん ど話をしませんでした。責任を持って任される仕事がなく嫌でした。

 その後、てんかん発作で1年入院し、その時、あかり作業所ができたことを聞きました。所長 の岡本さんのことはてんかん協会で知っていたので、2つ返事でOKしました。

(中略)

 作業所の中には嫌いな人もいますが、てんかんをもった人も多く、病気のこともわかってく れてるし、職貝も気楽に話したり、相談にのってくれるし、好きな人もできました。

 休みには将棋道場に出かけ、大好きな将棋もできて、毎日やることがあって退屈という日は ありません。だから、今が最高の時だと思っています。


 この仲間は、高校生のときに父親をなくし、母子二人きりの生活になりました。その時お母さんは 「息子をしっかりした人間として社会に送り出さねば」という大きなプレッシャーを感じたと言います。 幼児期に病院や福祉事務所などに相談に行ったときには、知的障害と言われなかったものの、その後普 通学級の中で「ちょっとみんなより遅れているとは感じていた」そうです。なんとか普通高校までは卒 業したものの、その後通った専門学校は中退し、手記の中にあるとおり、就労は全でうまく行きません でした。どこにも行き場がみつからないまま、息子が家にずっといることが一番つらく、お母さんは 「一緒に死んでしまいたい」と何度も思ったそうです。その頃のことを振り返り「妥協点が出てこず、 母親の思いと息子の思いとのギャップが激しかったのだと思う。」と話しておられました。作業所に通 うようになり、休まず、毎日楽しみにし出かける我が子の姿を見て「本人が楽しく過ごしてくれればい いと思えるようになった。自分が変わったことで本人も変わっていった。」と話して下さいました。

[作業所が大事にしていること]
 先程も少し述べましたが、作業所は訓練の場ではありません。一般就労を目指す人にとっては、そこ は物足りなさを感じるかもしれません。しかし、作業所が開所した当初を振り返ると、挫折を繰り返し、 自信を失って、意欲を持てなくなった仲間たちの姿がありました。仲間たちは作業所の仕事を通して、 自分が認められていることを実感し、今では自己紹介で「○○班で〜の仕事をしています」と言うよう になりました。自分の仕事に自信と誇りをもつようになるまでの変化はドラマチックな感すらありま す。

 仲間たちにあった仕事作りをどのように行ってきたか、仲間たちが主体的に参加できる行事のとりく みなど、具体的な作業所の実践については、今後連載していく予定です。

 ともかく、あかり作業所は、仲間が働く喜び、生きる喜びを感じられるような「仲間を主人公に」し た実践に取り組んでいます。

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てんかんと作業所4

行政の窓口はどこ?

一制度・計画に含まれることの必要性一

さざなみ福祉会代表 下川悦治

[てんかんなら予防課では]一あかり作業所の場合
 福岡市では、当時は知的障害者などが民生局障害福祉課・精神障害者などが衛生局保健予防諜でした。て んかん分野での作業所としての窓口をどこにするかが迷いましたが、てんかんは精神障害ではないこと、財 政的な理由などから障害福祉課に申請しました。しかし、作業所を開設する資金活動を始めマスコミが報道 すると「てんかん」は保健予防課ではないかという話もありましたが、最終的には、知的障害者を主にした 作業所としてスタートしました。

 また、開設準備や行政への申請が「障害者基本法」の制定と時期が同じで、てんかんだけでは障害者の 範疇に含まれるかどうか分からないという問題もあり、知的障害者としての申請になりました。表-1のよ うに、その後も、法的位置付けと密接に関わる形での作業所運動が続きます。私たちは、てんかんのそ のものの理解と制度上の問題を一緒にして運動を広げることを方針とし、絶えず運動の中で点検をして いきました。そうしたなかで、市の職員の中からも募金が寄せられたり、子どもの貯金が送られてきた りなど、感動的な広がりが産まれるなど、市民と地域に広がってきました。てんかんが制度的になにも ない時代だっただけに困難ではありましたが、在宅の仲間をなくすことという願いを前面に出した取り 組みとなりました。

表-1 行政と作業所の動きの時期
国の動き地域の動き作業所の動き
1993年障害者基本法制定(12月)共同作業所全国連絡会 全国集会福岡市で開催=てんかん分科会が開くあかり作業所設立分科会設立
1994年  第5ひかり共同作業所「あかり」開所
1995年精神保健福祉法制定
障害者プラン策定
福岡県障害者 福祉長期計画策定(3月)さざなみ福祉会設立
1996年 北九州市障害者施策推進さざなみ作業所開所・のぞみ 作業所開所
1997年  「あかり」分場施策として開設
1998年社会福祉基礎構造改革の動きふくおか障害者プラン県 策定準備さざなみ第二作業所開所

[てんかんを表に出さないで]一さざなみ作業所の場合
 精神保健福祉法で、てんかんの法的位置付けが決まり、さざなみ共同作業所では、保健予防課に申請 しましたが、補助金要綱では、「精神障害者の家族会」の作業所への補助がされることになっていました。 てんかんを前面に出しての街頭募金などに対して、「てんかんを表に出さないで」という雰囲気で、ここ でも窓口はどこかという論議に相当の時間を要しました。てんかん協会とさざなみ福祉会では、精神保 健福祉法の改正内容についての説明などしていきましたが、法の本文の中でのてんかんの曖昧さなどか ら思うようにはいきませんでした。また、家族会にしか補助金が出ないという当時の規程で、支部を家 族会扱いにしてもらうことなども含めて要請しましたが、最終的には、さざなみ福祉会家族会運営とし てスタートしました。その後、家族会規程は改正されました。

 さざなみ共同作業所の特長は、地域の支援を当初から受けてきた幸運があります。当初保健所の援助で自 治会・町内合・民生委員の方に設立に関わってもらい、それが財産となり、バザー、後援会や町内合のて んかん講演会などの広がりを得つつあります。さざなみ共同作業所では、てんかんだけでなく、 地域の精神障害者の参加も増えてきました。

[障害者基本計画と作業所]一のぞみ作業所の場合
 北九州市では行政組織が精神障害者も同一になる頃でしたので窓口での苦労はありませんでしたが、 福岡市の比べて1/3以下の補助金であることから親とボランティアによる運営でスタートしました。 同じ頃、基本計画のなかで多分日本で初めててんかんの章を設け、独白の計画が策定されました。その きっかけになったのは、ある母親が「てんかんの人もなんとか生きていく方法をつくってほしい」とい う切実な訴えを聞いた行政と関係者の支援によるものでした。

 北九州市では、市が認可施設をつくり、民間が運営する方式がとられていますが、来年開所予定の精 神障害者通所授産施設を運営する社会福祉法人の設立準備会に分会の野島代表が加わり、将来、援護寮 生活支援センター、福祉工場へと事業が広がっていく予定です。

 北九州市も福岡市も100万人を超える政令市ですので窓口は市になります。その申請の中で、てんか んの行政的な位置付けが進んできたと思います。

[制度・計画との関わりなかでてんかんの位置付けを求めて]
 表-1にもみられますように、国の制度や地域の施策との関連で、絶えず問題が生まれてきました。それ は、てんかんの制度内扱いのあいまいさを如実に示すものでした。

@「あかり」の時は,まだ、障害者基本法もない時期でした。その制定が私たちに力を与えました。
A「さざなみ」の場合は、精神保健福祉法でのてんかんの位置の確認作業となりました。
B「のぞみ」では、施策の対象として明確にされたことで、その役割が明確になり、私たちを勇気づけ 開設できました。
C知的障害者などの作業所と精神障害者の作業所ではまだ格差があります。その是正も大きな課題です。 (表-2参照)平成10年度15人以上
D福岡市では、補助金が不充分とはいっても九州では最も高くなっています。作業所関係者の長年の運 動の賜物であり、作業所開設が続いている背景でもあります。そのお陰で開設できました。
Eてんかん協会は、設立当初から関係者だけでなく、地域の障害者団体との連携をしてきたことで、制度 上の問題を明確に把握できていたと思います。

 てんかんの作業所の開設は、行政も、私たちも初めての経験ですので、すべてがスムーズにいくとは 限らないこともあると思います。制度上の問題もありますが、「在宅の仲間をなくしたい」との私たち の願いがある限り、問題は解決されると思います。

[制度利用による社会参加]
 作業所ができたことで、次のような点での制度利用が進んでいます。

@療育手帳・保健福祉手帳などの取得では、本人の能力を作業現場で判断し、本人も親も納得しての取 得することができた。
A障害年金など所得保障の必要性からの受給がされるようになった。精神障害者の無年金状態について の問題も新たな課題となった。

表-2 福岡市の作業所補助金と格差
心身障害者作業所精神障害者作業所
運営費補助11,262千円1O,393千円
初年度調弁費500千円500千円
家賃補助限度額6万円制度なし
光熱水費補助年額2.3万円制度なし
重度加算限度額141万円制度なし
研修費補助年額10万円制度なし

B職業安定所、障害者職業センターとの連携が作業所職員を通じて具体的になり、雇用拡大につながっ ています。
C職規制度を利用した雇用も増えつつあります。
Dてんかん協会の事業では、月に1同程度しか会えませんし、専従の職員もいません。しかし、作業所 では、日々の中で仲間が抱えている問題を職員と家族の連携で解決していくことができます。

 他の成果は別の機会に譲ることにしますが、協会の集まりだけでは見えてこなかった問題が沢山あり ます。私たちの悩みを解決する場としても作業所運動は有効だと考えています。
@いろんな場所でてんかんの問題をアッピールすることで目に見える啓発活動が広がります。
A関係機関との連携も個別的な援助が明確になり、就職につながる人が増えています。
Bてんかん協会だけでなく、各作業所の職員や家族を含む要望活動が進んでいます。

 てんかん協会とさざなみ福祉会の連携でてんかん問題をとらえて、解決の方向をさぐっています。

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てんかんと作業所5

作業所の仲間達

さざなみ共同作業所所長 簑原 毅


 今回はさざなみ福祉会が平成8年度に設立した小規模作業所で、福岡市城南区にあるさざなみ作業所 (第1作業所)と平成10年度にそこから分かれたさざなみ第2共同作業所(第2作業所)に通う3人の仲 間達を中心に、作業所の様子を話したいと思います。

[毎日休まず出勤するするAさん一50歳を過ぎてからの仲間づくり]
 朝9時半、一番に出勤するのは作業所の近所に住むAさんです。第2作業所のAさんは一昨年4月の バザーのとき、地域に配ったびらを見て作業所を知られました。56歳のAさんは、長年てんかんで通 院はしていましたが外科が専門の病院で、障害年金や32条適用は受けていませんでした。お父さんも てんかん協会を知ったときは「こういうものを私はずっと探していました。」とおっしゃいました。て んかんの他、知的障害もありますが、作業所に通うなかでどんどん変わっていきました。ご両親に厳し くしつけされたと思われ、礼儀正しくまじめな方ですがレクリエーションの参加等何か決めるにつけ、 「おとうさんに聞いてみなわからん」と言い、父親の判断なしに決めることはされませんでした。しか しレクリエーションやイベントについて、事務室のスケジュール表を見ては「これは何ね」とすぐに聞い てきて、とにかくなんでも参加したい気持ちがあるのはよくわかりました。そういうAさんが最近は、 スケジュールを知った時点で参加するというようになり、先日などはこんなことがありました。仲間で 休みの日にボウリングに行く話になりましたがAさんは父親に反対されてしまいました。しかしAさん はあきらめず、交渉の末行けることになりました。あとでお父さんに伺うと、ボウリングに行くのに3 000円いるから出してくれと言われたそうでした。(本当は1000円くらいしかかからないのに) これまでAさんは、何かしたいことがあっても、「-したい」とは絶対言わず、「-してもよか」とい われていました。しかし最近「-したい」とか「仲間といっしょに行きたい」とか自分の希望を言われ るようになりました。また、第2作業所では朝と帰りにミーティングを行なっていて、その司会を仲間 が日替わりで交代してやっているのですが、はじめの頃Aさんはうまく司会ができず仲間に指摘を受け ていました。しかし最近は上手にこなし、ミーティングで意見を言うときもその内容をよく理解し的確 な意見を述べるようになりました。Aさんのこのような変化は自信から来るものだと思われます。そし てその自信は、自分が認められ必要とされる場があり、自分の能力を発揮することを繰り返すなかで身 につけられたものだと作業所ではみています。そして私達は年齢を重ねてもさらに変わって行くAさん の力に驚きつつ感動しています。

[発作が多くても作業所に通うBさん一自分に合った生涯働ける場を求めて]
 Aさんとは対照的に第1作業所の仲間のBさんは発作が多く作業所に来ることがなかなかできませ ん。Bさんは作業所ができる前からてんかん協会の会員で、これまで他の作業所にも通われましたが、 なかなかなじめなかったようです。さざなみに通うようになったのも作業所ができてしばらくしてでし た。通い始めたときは通勤が1時間以上かかる東区に住まれていましたが、さざなみに来るようになっ て、「ここでは話が合う仲間がいる」と言い、作業所から歩いて20分くらいのところに引っ越されま した。その頃は作業所でソフトボール大会出場のための練習をしていましたが、それにも参加するほど いい状態でした。しかしその後状態が悪くなり薬が増えたため、作業所に来る日数も減り、通うのが精 一杯という様子でしれそれでもBさんはさらに近くの団地に引っ越し、短い時間ではあっても作業所 に来る努力を続けています。Bさんもまたまじめな人で、どんなに発作があっても休むときは必ず連絡 をしてこられます。最近はあまり得意ではないと言う作業所のミーティングの司会もされますし、先日 の作業所後援会ニュース『ONEDAY』の「私も書きたい」という仲間のコーナーに、自分の好き なNBA(アメリカのブロバスケットリーグ)について書かれました。後でお母さんに伺った話では、 自分が書いた記事を読んだかと、何度も聞かれたそうです。Bさんはお母さんと二人暮しで、そのお母 さんも仕事を持っているので昼間家にいるときはBさんが家のことをするそうです。お母さんもBさん が元気に作業所に通えるようになる日のことを夢見て働き、お二人で協力し合って暮らしてあります。

 作業所としてはBさんのようなケースでは、今後働く場の保障だけでなく生活支援も必要であると考 え、このような二一ズが高まる中、福祉会でも生活支援センター等の開設について検討しなければなら ないと考えています。

[作業所がぎたえられたCさん一もう少し早目の出合いがあったら]
 かつて作業所の仲間だったCさんは、初めてこられたときは、職員も仲間も対応に苦労しました。て んかんと軽い身体障害があり、軽度の知的障害があったと思われたCさんは手を洗うとか鼻をかむとか 基本的な生活習慣を身に付けてなく、しかし作業所まで自転車で40分以上もかけて来るバイタリティ ーあふれる方でした。38歳まで在宅で、集団での経験に乏しかったCさんは作業所でのルールや一般 的なマナーが守れず、その度ごとにミーティングが持たれルールづくりがなされていきました。遅れて きてすぐに汚れた手のまま作業しようとし、作業前には手を洗うことが確認されたり、自分が持ってい ても仲間などからタバコをもらったして、タバコは人にねだったりしない・ねだられてもあげない等の ルールがつくられ、なんだか堅苦しい感じがするようになっていきました。

 また、毎日のように10分程度遅刻してくるCさんに、仲間からペナルティーを与えてほしいと言わ れ、ミーティングを持ったこともありました。さざなみではもともと給料は時給制で、作業所としては 通えることを重視し、30分以下の遅刻や作業中の体調不良による休憩等に対して給料の減額はしてい ませんでした。遅刻しているから給料から引くべきだといわれたCさんは「休憩していても給料が減ら されんのはどうなのか」と、もっともな反論されました。この時は作業所としての考えを説明し、どち らも減額しないことを確認しましたが、その後もCさんに対する仲間のさまざまな指摘は続きました。 それでもCさんは作業所に通うのが大好きで、めったなことでは休みませんでした。

 第2作業所に分かれてもCさんに対する批判はありましたが、仲間であることは認められていました。 この頃から次第に落ち着いてこられ、しばらくぶりにCさんを見るボランティアさんや、Cさんの近所 の方に良い意味で「変わったね一」と言われるようになりました。

 「作業所では金にならん」と言って、アルバイトに行った時期もありましたが継続的な雇用ではなく、 また作業所へ戻ってこられました。その後は仲間の一人から、作業所にはお金を得るためだけに来てい るのではなく、リハビリのためでもある。だからあなたももっと真剣に取り組みなさいといったことを 言われ、その仲間にいろいろと相談する関係の中でCさんは作業の役割一つ一つに真剣に取り組み始め ました。職員が作業についていろいろと指導してきたことはなかなか聞き入れられなかったCさんが、 仲間との関係の中では素直になれたようでした。作業所にはこういった良さがあると思います。集団の なかでお互いが刺激し合い高め合う場の提供も、作業所の役割のひとつだと考えています。社会の中で 受け入れらず、ようやく居場所を見つけそこになじみ、その中で認められ始めたCさんでしたが、その 矢先に事故が起こりました。そして今年の夏Cさんの初盆を迎えます。

 Cさんもまた母親と二人暮しで、お母さんは福祉的な援助を求めて何度も行政の窓口にいかれたそう です。しかし「てんかん」ということで受け付けてもらえず作業所に来られたときは手帳も年金も32 条の適用すら受けられていませんでした。その後てんかん協会にも入会され、手帳と32条の適用を受 け、年金も受けることができました。障害年金については日頃通われていた内科の先生に書類を書いて もらっていたこともあって受けられなかったようで、協会のアドバイスで精神科の先生に書いてもら い受けることができました。

 近年ようやく「てんかん」も福祉の対象となりましたが、Cさんのように長い間在宅で自助努力により 暮らしている人達はまだまだ多くあると思われ、その在宅を少しでもなくすために作業所は必要であ り、福祉会としても協会や作業所の存在を広く伝えていく必要があると認識しています。

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