何だかおかしい 筒井康隆「無人警察」角川教科書てんかん差別問題

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これは、近代文藝社から1995年4月に同題名で出版された本を著者佐藤めいこ氏 のご好意により全文ホームページ版として掲載しているものです。許可なく 複製、転載はできません。表示はできるだけ原本に従いましたが、表示の制限 のため傍線は斜体、波傍線は太字の表示に置き換えました。誤字、脱字等お気づ きになりましたら、までお知 らせ戴ければ幸いです。

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はじめに

 九十三年夏に始まった筒井康隆の小説「無人警察」の教科書掲載をめ ぐる日本てんかん協会の抗議は、一年余を経た九十四年の秋、教科書 からの削除という形で決着がついたとされる。本書は、この決着を妥 当な判断とは認めず、問題が解決したとは思わない見地から、何が問 われ、何が原因で起こった出来事なのかということを新たに掘り起こ し、私たちが真に取り上げ、語り、解決しなければならないことは何 だったのかを問い直す。

 この事件は、当初よりどの段階を見ても、おかしなことばかりで あった。差別を問題として起こった抗議に対し、差別問題を抜きにし た決着はその最たるものだが、教科書問題としながらも、教科書の問 題には触れられていない。その巧みなまでの「すりかえ」ぶりは、読 み物としてもおもしろいが、問題解決を関係者だけに任せておいたら、 私たちが知りたい解答は得られないかもしれないということだ。

この宙に浮いたままの疑問を、考えてみたいと思った。関係者だけの 問題ではなく、教育や文学や差別や表現や時代の問題として。机上論 ではなく、具体的対処法として。
 これから私たちがしなければならないこと、してはならないことを、 この現実に起きた具体的な事実から読み取っていく。
 問われなければならなかったのは、筒井氏がとらえていたのとは別 の意味での教科書問題であり、文学の問題である。その点を本書では十 分述べ、今後の検討に期待したい。

序 章

 一年余にわたるこの事件が「何だかおかしいしと思うのは、当初から 関係者の言い分がかみ合わないまま、ある種の結論とも言うべき教科書 掲載決定に踏み切り、教育現場ですでに使用・学習された後に、心配さ れた問題も特別起きていないのに、突然一年ぶりに、それまで話し合い も続けてこなかった筒井氏とてんかん協会が削除決定の合意をするとい う意外な展開を見せたからだ。
 「意外」というのは、「なぜ筒井氏が」ということである。
 周知のように、筒井氏は、この事件の発端となったてんかん協会から の抗議をきっかけとして、表現の自由を求めて自主規制の社会の風潮に 異議を唱えるべく断筆を続けており、差別やいじめが起こるかもしれな い可能性を案じて自ら教科書から削除することは、彼がよしとしない自 主規制ではないかと思うからである。
 また、両者の合意は、差別のことは問わないうえでなされた。「差別 がある」あるいは「差別を助長する」と思ったから抗議は起こったので あり、その原因を見ずして結果を出すことに何の意味があるか。
 しかも、なぜ決着をつけたのが両者なのか。てんかん協会の抗議相手 は角川書店であり、筒井氏も把握しているようにこれが教科書問題であ るのならば、責任は教科書会社と文部省にある。
 確かに、著作権を有する作者が反対すれば、教科書会社は法的に教科 書に掲載できないのであり、「削除」を目的とすれば、てんかん協会が 筒井氏との直接交渉に走ったのは、効果的だった。だが、「削除」を目 的としてよかったのだろうか。
 教科書からの「削除」を要求した抗議ではあったが、差別に対する理 解が得られないまま引き下がってしまうのでは、表現を無くせば差別が 無くなると考えている「言葉狩り」を連想させ、てんかん協会が活動の 内容を「抗議団体ではなく、てんかんに対する理解を求める」と主張し ていることが力を持って響いてこなくなる。
 何より、「てんかんに対する理解を求める」という目的が、この「削 除」によってより実現できるとは思えない。教科書に掲載されていれば こそ、このことを話題にし、てんかんに関する正しい情報を伝える機会 もあるのではないか。
 てんかん協会は、教科書の脚注の表現について納得のいくよう申し入 れをするなど、善後策をうまくすれば、てんかんに対する理解を深める またとないチャンスを手にすることになり、一方筒井氏は、「表現の自 由を主張する立場から削除はしない」、あるいは「百十か所にも及ぶ改 変を表現の自由を損なうものとして教科書から取り下げる」というのだっ たら、筋は通り、表現の自由をめぐる論議も有意義な展開を見せること になったろう。
 今回の決着は双方にとってマイナス行為だったのではないか。また、 「差別を助長するかどうか」という懸案点は、高校生と一般読者に分け て論じるのはおかしく、問題があるとしたら、誰が読むかという「対象」 にあるのではなく、どう書かれているかという「表現」にあることに気 づく。つまり、教科書であろうと文庫や全集であろうと結論は同じで、 この問題は、「表現の問題」として持ち越されたことになる。

 「無人警察」における差別問題は、「無人警察」に差別があるかどう かで決着がつくのではないか。そう考えることから私は、筒井氏やてん かん協会や角川書店や文部省がどう考えているかではなく、「「無人警 察」という作品がてんかんをどう描いているか」を徹底的に検証してみ ることにした。そして、この事件の論点も社会の話題も「表現」につい てであることから、広く「表現の問題」として、今回の「無人警察」が 教科書掲載に際して百十か所もの表記や文章の書きかえが行われた事実 とそれがもたらした作品への影響を示し、作品にかかわる者が何をすべ きで何をしてはならないのか、作品を守るのは誰かを考えていく。
 また、実際に今後三年間は教材として残る「無人警察」に対して、 「削除が決まったのだから使用しない」とか「てんかん差別にならない 読み方を指導する」のではなく、作品の中におけるてんかん部分を正し く把握した積極的な授業が行われることを望んで、「無人警察」の新解 釈を披露する。
 『何だかおかしい筒井康隆「無人警察」角川教科書てんかん差別問題』 は、事件の本当の決着をつけるための、事実を知って対処するための、 作品としての「無人警察」を読むための、実用書でありたい。


目 次

はじめに

序 章

I. 筒井康隆「無人警察」角川教科書てんかん差別問題の経緯

  ―事件のなりゆきに問題はなかったか検証する―

II.てんかん部分を読む

 ―本当に「無人警察」に差別はないか検証する―
てんかんに対する差別はあるか

III.「無人警察」が教材になる過程 ―改変が適切であったかを検証する―

(A)表記面の改変


(B) てんかん部分の改変

前半部の脚注の検討
 後半部の書き変えの検討

IV.「無人警察」をどう読むか ―「無人警察」には何が描かれているか検証する―

V.作品としての「無人警察」を考える ―読解の教材として適しているか検証する―

 「無人警察」の読解問題

異端読解法 ―「無人警察」を新たな目でとらえ直すために―

 小説を読むとはどういうことか

おわりに



I. 筒井康隆「無人警察」角川教科書てんかん差別問題の経緯

    ―事件のなりゆきに問題はなかったか検証する―

 一九九三年夏、筒井康隆の小説「無人警察」が、てんかんに対する差別があるとし て、抗議を受けたことがマスコミに取り上げられ、話題になった。
 これは、この作品が次年度の高校教科書に掲載予定となったことで、日本てんかん 協会が角川書店に対し、作品中のてんかんに関する記述が不適当であることから招く 差別や偏見を心配し、学校という教育現場でてんかんに関係する者が傷つくことを懸 念して、教科書からの削除等を求めたものであったが、角川書店との話し合い以前に 抗議内容が声明文としてマスコミに発表されたことと、その内容が、教科書の採択の 時期に当たっていたことで、高校等の関係各位へ採択の中止を求めたり、教科書から の削除だけではなく、文庫・全集の回収、書き直しなども要求していたため、過激な 印象を世間一般にも与えた。
 反響は大きく、新聞・雑誌等では投稿記事、特集などが組まれ、意見が活発に飛び 出したが、教科書問題やてんかんという病気の問題としてではなく、差別表現に対す る抗議行動の一つとして取り上げられることが多く、その論争の中で筒井康隆が断筆 宣言をしたこともあって、マスコミの自主規制の問題や差別表現をめぐる問題一般へ 話題は流れていった。

▼経緯のあらまし:経緯において何が問題か
 日本てんかん協会の抗議に対しては、抗議内容が読み誤りによる不当なもので、削除 する意志はないとして角川書店が直接回答した(八月五日)が、これをもってして日本 てんかん協会が提示した問題が解決されたとは言えない。
 それは、その回答に不服があるとして、てんかん協会が十一月七日に日弁連人権 擁護委員会に人権侵害の申し立てをした事実もあるが、抗議の主動機となった「て んかんに対する差別や偏見」が「なく」、「差別や偏見を助長するおそれ」が「ない」 とは言えないからである。
 角川書店は自社の意見を述べたにすぎない。客観的な証明はなされていないのであ る。にもかかわらず、多くの人が納得してしまったかのようにこの問題に触れないの は遺憾に思う。
 てんかん協会が提示した問題は「てんかん」の問題ではあったが、これは、「てん かん」の表現や認識の問題だけではなく、「てんかん」という病気を扱うこと、差別語 や差別表現の問題、それらを扱う文学をどう書き、どう読むかといった方法論や指導や 学習の問題など、語られるべき語られなかった問題がいくつも含まれているからである。

 大方の関心は、「無人警察」を離れて、「無人警察」という小説は、差別表現が問題 にされた例の一つとして思い浮かべる程度の理解でしかないと思うが、実際この作品 を読んだり教えたりする立場になったら、私たちはどう解釈したらいいのだろうか。
 「無人警察」が教材となって、しかも教材としての適不適が問われた事件があったた めに、教材として現場で授業が行われるに際して、角川書店の「国語科通信」の特集 をはじめとして数々の解釈論や読解指導法が発表されているが、それらが、この作品に 「差別はない」としていることに疑問を感じる。
 もちろん、「差別はない」とするから教材として取り上げるのであろうから、それは 当然な事象でもあるのだが、でも、その根拠は「差別はない」と自分が判断したのでは なく、教科書検定が通ったのだから、問題になったにもかかわらず載ることになったの だから、差別はないと判断された証拠と、他人の判断に寄りかかっているのではないか。

 「無人警察」に対し、「差別がある」とする立場を取った意見のほとんどは、てんかん 関係者であった。しかし、その発言が差別を受ける立場からの切実な現場の声で、体験 的・心情的な訴えであったために、「差別がある」ということの客観的な根拠には聞こ えなかった。
 そのことが、「差別がある」とすることに説得力を持たず、その反動として「差別は ない」とすることの論を裏付ける方向に働いてしまったと思うのだが、「差別はない」 とする方の論とて、論理的・客観的に説明されてはいない。「差別がある」とする意見 に反論を述べているだけにすぎなかったりする。
 差別というものは、される側に敏感に感じられるものであるから、関係のないものは、 たとえ差別をしていても気づかない、気にならないということがある。
 この作品に「差別はない」として読む人の多くは、単にてんかんに関係がない人なのか もしれない。

 差別はする・しないの問題のほかに、差別を感じる・感じないの問題がある。
 後者の判断は、多分に感覚的で個人差があると思われるが、実は、差別をする・しな いも本人の意識レベルに差のあることで、本人の言うことをあてにしていいかどうかは わからない。
 では、今回の「無人警察」において、てんかんに対する差別があるかないかは、どう 判断したらいいのだろうか
 それは、「無人警察」が小説として書かれたものである以上、小説として読むことで 判断しなければならない。
 ―「無人警察」において、てんかんはどう描かれているのか―
 それだけを手がかりに、てんかんに対する差別があるかないかを論じなければならない のに、それを論じたものはない。どうしてだろうか。
 それは、各段階において方法論に誤りがあるからである。
 なのにそれを前提に論じるから、ポイントはどんどんずれていく。
 それを私は検討し直すことによって、この問題が本来話し合われるべきであったこと を取り出し、話し合われるべき方法で考え、そのうえで何が問題であるかをもう一度つか み直してみたいと思う。

差別語摘発と受け取った誤り
 まず、てんかん協会の抗議を、よくある差別語摘発だと解したことは、問題の焦点を 「無人警察」からどんどん遠避けることになった。
 その引き金は、筒井氏の断筆宣言で、自分の小説が「日本癲癇協会から差別であると して糾弾されたことを直接のきっかけとして、筆を断つことにした」と述べ、「差別表 現への糾弾がますます過激になる今の社会の風潮は、小説の自由にとって極めて不都合 になってきた」という作家の怒りに同情し、差別表現に対する抗議を恐れるマスコミの 自主規制のいきすぎなどが、多くの作家や知識人や筒井氏のファンなどから筒井氏を代 弁するかのように声を大にして叫ばれた。
 新聞や雑誌は、筒井氏の断筆宣言をめぐる反響や差別語問題に関する特集などを組み、 多くの意見を載せたが、「「無人警察」は読んではいないが」と前置きして意見を述べ るものがかなり目についたことからしても、てんかん協会が抗議したということと、筒 井氏が断筆してしまったという話を聞いて、自分の思っていることをこの機会に述べた にすぎない。それは、社会現象に対する感想で、「無人警察」論ではなかった。
 「断筆宣言」の中で、筒井氏が「無人警察」の問題を断筆のきっかけとしてしか扱っ ておらず、断筆宣言は、「自由に小説が書けない社会的状況」や「そうした社会の風潮 を是認したり、見て見ぬふりをしたりする気配」が「「反制度的でなくてはならない小 説」に理解を示すべき筈の多くの言論媒体にまで見られる傾向に対しての抗議でもある」 とし、「人権問題、差別問題、ことば狩りなどに関するジャーナリズムの思想的脆弱性 に対しては、強く疑念を呈しておく」と述べたことから、鉾先は完全にジャーナリズム の方へ向いてしまった

 筒井氏が「糾弾された」と言っており、断筆宣言という激しい態度に出たので、それ に至らしめたてんかん協会は、どんなに強い態度に出たのかと思うが、角川書店と関係 各位と文部省に、紙面で申し入れをしただけである。糾弾ではなく、抗議という言い方 が適切で、しかもかなりおとなしい形であると言える。
 そして角川書店から紙面で回答書が渡されたのが、申し入れをした一か月後、断筆宣 言の一か月前である。
 てんかん協会は筒井氏に直接抗議していないし、筒井氏も直接意見を告げてはいない。 角川書店での内部検討に際して筒井氏に意見が求められ、それに応じて書かれた「覚書」 が角川書店に渡されただけで、それは全く別個に『噂の真相』(九三年九月号)に発表 されたにすぎず、このやりとりに筒井氏は直接からんではいない。
 そのことに筒井氏は不満であったかもしれないが、書類が手続きに従って交わされた だけの極めて地味な事件経過であった。
 筒井氏が断筆宣言をした頃の日本てんかん協会は、角川書店から削除する意志がない という回答を受け取り、「角川の回答はすり替えと詭弁に満ちたものである」と意見書 をつき返しても(八月六日)、角川側に変更がない以上、各高校が角川教科書を採用し ないことを祈るしかすべがなかった。

 こういう事情であったにもかかわらず、世間の印象としては、てんかん協会が差別が あると言いがかりをつけたので、筒井氏が断筆をし、「すぐ差別、差別と言って締めつ ける風潮」に憤るという図式が完成していた。
 これは専門の分野でも同じで、文学論や作品論を論じる際も、「無人警察」の弁護論 が目立つ。
 差別があるとしたてんかん協会の抗議内容がいかに的はずれで、そう読まれる心配は ない、あるいは、それは授業で十分な理解を与えられると説明し、そんな細部に目くじ らを立てて作品を糾弾することに感心しないといった論調で、てんかんに対する教室で の印象には配慮しなければならない点は感じながらも、読解のレベルで解決できるとい うことが、てんかん協会の抗議に対する反論の根拠となっている。

 一方、教科書からの削除を求める側の意見は、必ずといっていいほど、てんかん関係 者によるもので、てんかんに対する差別や偏見を植え付けたり助長したりすることの危 惧、てんかんに対する知識や患者に対する認識の誤解、てんかん関係者が傷つくことへ の配慮といった視点から、実際の痛みとしての言い分が語られる。そのことは、「踏ま れた側の痛み」として、差別問題を考える際になおざりにしてはならないこ とだが、「困るからやめてほしい」という実利だけでは、削除の根拠としていまひとつ 弱い気がする。

 でも、双方の話を聞いてみると、同じ表現に対し、「痛い」と思う人と、「痛くない」 と思う人が存在することがわかり、「痛い」という人がいるにもかかわらず、「痛くな いだろう」と押し切ろうとする人がいるということは大きな発見であり、「痛くない」と する人が強ければ、あるいは別に目的があれば、「痛い」という声は聞き入れてもらえ ないという事実も見た。
 差別に関しては、「痛い」という人の声が優先されるべきであるという論理がここで は通らなかった。
 その理由は、「差別」が「ない」と判断されたからである。
 これは差別される者が差別する者に負けたのではなく、差別する者が存在していない という判断だったのだ。差別される者は現実に存在しているのに、差別する者の存在は ないという不思議が、差別される者の痛みを行き場のないものとしている。

角川「回答書」の誤り
 では、なぜ「差別はない」と判断されたのであろうか。
 それは、角川書店が「訂正・削除はしないしとてんかん協会の要求をはねつけたから である。
 「ということは角川に非はなかったのだ」と、世間は受け取ったに違いない。

 その論破の仕方は見事であった。てんかん協会の声明文の中にある「てんかんが悪者 扱いされている」という記述が、「わたしはてんかんではないはずだし、もちろん酒も 飲んでいない。何も悪いことした覚えもないのだ。」と読んだことによるものである ことを指摘し、これは、「…何も悪いことした覚えもないのだ」という原文の読み誤 りによる誤解で、原文に従って読めば「悪いこと」がてんかんを指していず、「てんか んが悪者扱いされている」と主張することの根拠をくずしたのである。
 その他の抗議内容に関しても、「てんかんは取り締まりの対象としてのみ扱われ、 医学や福祉の対象としては全く考えられていない」に対し、「交通違反の取り締まりの 様子を描いた文章」で、「交通違反の対象としてはまさにその通り」で、「この交通違 反の取り締まりの段に、医学や福祉の問題を書き込めるものではありません。医学・福祉 の側面から、てんかんについて啓蒙し、発言していく必要性は充分認めますが、ここは その場ではない」と小説の立場で答え、読解が正しく行われれば、「思春期にある高校 生を傷つける」こともないと確信している。
 「「てんかんが悪者扱いされている」との発言は、まったく読解の不十分さから生じ た誤解と言わざるをえません」とてんかん協会の抗議を「読み誤りに基づく不当な言い分」 と受け取った角川書店は、てんかん協会の声明文の根拠を小説の読解に失敗したゆえの ものと取り合わず、それゆえ正しい読解によればそれらの心配は及ばないのだという意 を強くしたようで、「読解」や「小説の立場」を説明することで、この抗議を乗り切った

 この角川の「回答書」は、読解のプロ対素人の闘いを見るようで、その論破の仕方は 一見論理的で小気味よいが、実はてんかん協会の真意を受け取っていないことに気づく
 てんかん協会がこの声明文で言いたかったことは、「てんかんに対する差別や偏見を 助長する」おそれの心配であり、内容は教科書に採り上げるのはやめてもらえないかと いう相談に近かったと思われるが、てんかん協会が角川書店と話し合う以前に関係各位 へ通達を出し、マスコミに発表したことが、角川書店の心象を害したと思われる。  そのことは、回答書の冒頭に、「抗議文、声明文ともに七月十二日に受理」と示すこ とによって、十日付けで関係各位に出された声明文より先に知ることはできなかった由 (よし)を告げ、末尾に「この貴会が小社と充分話し合うことなく、一方的に記者会見 を開いて声明文を発表し、それを新聞各紙に公表したばかりでなく、各都道府県の教育 委員会ならびに各高等学校に対して不採用を求めたこと。さらに文部省に対しても、す でに検定済である教科書の検定取り消しを要求するなど、今回、貴会がとられた一連の 行動は、自己の立場を強調するあまり他者をかえりみない不当なものと思われます。小 社といたしましては、このような行為に対し、陳謝を求めるとともに、あわせて多大な 損害を受けている事を申し添えます。」と明記され、内容よりは行動に対して怒りを示 していることがわかる。
 また、角川書店及び文部省に宛てられた抗議文には、教科書の販売の中止、教科書検 定の取り消しを要求する理由として、「筒井康隆作「無人警察」は、てんかんに対する 誤解と偏見を基礎に作られた作品であり、…公刊することはてんかんに対する誤解を一 層助長し、てんかんをもつ人々と家族の心を深く傷つけるものにしかならない」 と表現していることも、反発を呼んだに違いない。(ゴチ部筆者)

 このため、角川書店側に、まずこれらを否定する必要が生じてしまった。
 その説明に際して声明文を見ていくと、助詞の読み誤りによる不当な言いがかりであ ることに気づき、文章や小説が正しく読めない素人に読みというものを教える態度で筆 が進められていく。
 「先ず、この声明文に回答する前に、「無人警察」の作品としての位置づけを明確に しておく必要があります」として、「このような読み取りに立脚して、初めててんかん 云々の論議が出来るのです」と、てんかん協会の読みの偏りを暗示している。
 その後は、「小説の読み取りの場」であるとして、「医学や福祉の問題を書き込める ものではありません」とか、「てんかんをもつ人の自動車運転免許取得の是非を論議す る場ではない」と取り上げず、てんかんと脳波の関係についても「本文の記述は誤りと は言えない」と流している。

 実際てんかん協会がその点に触れたのは、そのことを書き加えるとか書き変えてほし いということではなく、てんかんが「医学や福祉の対象としては全く考えられでいない」 扱いであることや自動車運転を危険とする設定が「時代遅れ(ママ)」であることが、 「てんかんに対する正しい認識を著しく阻害し、てんかんに対する差別や偏見を助長す る」例として挙げたと受け取り、その点に特に注目して「差別や偏見を助長する」おそ れがないかがもう一度十分論議されるべきであった。
 また、「てんかんと脳波の関係について医学的にも誤った説明」という指摘に対して も、てんかんが脳波で発見できるとする設定は、医学的に正しくなく、しかも後に思考 波と脳波を同じに考えている作者の誤りは、設定をもゆるがす勘違いである。
 小説の設定としてそう読むのだとわきまえているならよいが、一般的には書かれてい る形で、てんかんに対しても脳波に関しても理解されると思えば、その誤解を防ぐ指導 が教師に委ねられるのだとしたら、教師の責任は重大である。

 てんかん協会の読み誤りは、単純な見誤りで、する方に非があるわけだが、それはて んかんに対して敏感であるために偏った読み方をしたのではなく、読み誤りが生じやす い書かれ方であったかもしれない。
 確かにそうは書いていないのは証明できるが、問題は、読み誤った際に生じる影響の 大きさである。
 現にてんかん協会は抗議に至るほど「てんかんが悪者扱いされていることも、私たち の見逃すことのできない問題」に思ったわけだし、「てんかんが悪いことの一つのよう に書かれ」と受け取ったことも悲劇の発端であった。
 てんかん協会は表立って発表したから読み誤りであると返答ももらえ、その点につい ては自分たちの勘違いであると納得がいったと思うが、同様に誤読される可能性は否定 もできず、そのことがチェックできなければ、そういう印象を持って心に入っていくこ とになり、それが後に正されても一時(いっとき)でもその印象を持つことがてんかんに対してマイ ナスイメージであり、それが読者のミスで起こることでも、起こりうるという可能性が、 今回のてんかん協会の例で現実にあったということで、その点を謙虚に受け止めて、考 えるきっかけとしてよかったかもしれない。
 差別はする側の理屈ではなく、される側の感情が優先される。  確かに、文法的には「「てんかん」と「酒を飲むこと」と「悪いことをすること」と は並列の関係にあり、…「「悪いこと」がてんかんを指していないことは明白」 (「回答書」)でも、「てんかん」を「悪いこと」と同レベルに並べることに問題があ ると言われたらそれまでだ。
 このてんかんの問題は、対てんかん協会だけの話ではなく、主客は「無人警察」を学 ぶ数多くの高校生たちである。
 受け取り方の可能性はさまざまで、てんかん協会流の読みが解決できればそれでいい というものではない。
 この抗議は、可能性のこわさを教えてくれた、と取るべきである
 この小説を高校生たちがどう読み取るか、てんかんに対してどういう印象を持つか、 それは、角川書店が「日本てんかん協会の「無人警察」の記述が「思春期にある高校生 を傷つけるようなこと」であるとする主張は、これには当てはまらないと考えます」 (「回答書」)と言い切るほど、確信はできないと思う。
 しかも、「現場の先生方には、この点をしっかり押さえ、指導していただくべく……。 高校現場の先生方が、この作品の主旨を充分にご理解された上で、授業を進めていた だくことを積極的にお願いしたいと考えております」と具体的な問題の解決を現場指導 に振られては、高校の先生の負担が大きすぎやしないだろうか。
 てんかんに対する医学的な説明も、本文並びに脚注で十分でなければ「必要があれ ば、脚注は限られたスペースですので、このほかの補足すべき情報については指導書 で手当てし、現場の先生方の適切な指導に委ねたい」と、教師たちは教科書以外から 補わなければならないし、てんかんに対して誤解がないように十分な理解をさせると いうことは、この教材が「てんかんに対する正しい理解」を目的としていないだけに、 できたかどうかの判断は難しい。誤解を持ったり、傷つく人がいたら、それは先生の 指導ミスや力量不足となるのだろうか。教科書も指導書も十分であるそうなのだから。

世間の印象の誤り
 角川の回答書は、「「無人警察」に教材として不適切なところはないという結論で、 「「無人警察」を差し替えたり、訂正・削除したりすることはできません」と、てん かん協会に返した。
 角川書店の回答書だけを読むと、ご論はまさにごもっともで、てんかん協会が感情 でものを言っているのに対し、読解の手法といった理性面で説明がなされている気が して、納得してしまうのだが、これは、てんかん協会の言い分を「読解」という自分 の得意な土俵に引っ張り上げて論破したにすぎない。
 てんかん協会が指摘したことは、教材として採用するに当たって検討されなければ ならなかったことでもある。
 教科書掲載が、てんかん協会の懸念する事項においても十分に検討された結果であ るのか、抗議は予期せぬ横槍(やり)であったのかはわからないが、てんかん協会の 指摘をきっかけに、角川書店だけではなく一般の人もそれを考え直してみてもよかっ た。
 どういう表現が差別となり、誤解を招くおそれがあるか。それを教科書で扱うこと の意味や難しさ。差別をされる者の痛みの理解…。
 だが、非常に多くの人の耳に触れた出来事ではあったが、問題を正確にとらえた人 は少なかった。国文学や教育にかかわる人たちでさえ、角川書店の回答をうのみにし て、その上に立ってものを言っている意見がどれほど多いことか

 一番残念なのは、高校教師の無関心さである。実際に教える立場で、切実な関心事 であるはずなのに、あまり発言を見ない。
 それは角川の方針に賛成で教えることに自信があるゆえのことならかまわないが、 「無人警察」すら読んでいないという声を当たり前のように聞く。
 事件のことは聞いたが、その理解は一般人とさして変わらず、このことが話題に なったからといって、自発的に「無人警察」を読むということはなかった。
 この回答書によって使用が決定し、現実に高校生に授業をする立場にある教師た ちは、この「無人警察」という教材や角川の判断や要求をどう受け止めたのか知りた いと思ったが、意見を聞く前に、作品を読んでもらわなければならない人の多さに、 別の問題を感じたのだった。
 もちろんその前の採決の時期に読むことはなかったわけで、教科書の採択は、決 して全員の先生が各教科書を丹念に読み比べて選択するとは限らないらしい。
 せめて、話題になって、手元にその教科書があったのなら、それだけでも読んで 考えるということが教師によってなされ、現場で直面する教師たちからの声が一番 聞けてしかるべきだと思ったのは、幻想にすぎなかった。
 角川「回答書」の最後に、角川が実施した「一番授業をしてみたい作品アンケー ト」の結果によると「「無人警察」は三位を占めています」とあり、「このよう にこの作品は高等学校の先生方より高い支持を得ていることをお知らせいたします」 と添えてあるが、このアンケートは、てんかんに関することが話題となる以前、し かも「無人警察」が載っている教科書内における二十の現代文教材の中から選択す るものであり、教師がかねてから自発的にやってみたいと思っていた作品を挙げさ せたものではない。
 そのアンケートの記入の際、その教科書すべての作品を読んだ結果答えた人がど れほどいるかしれず、ましてやてんかんに関することが話題になった後であっても 「授業をしてみたい」と思うかどうかは疑わしい。
 このアンケート結果をもって、「この作品は高等学校の先生方より高い支持を得 ている」と結論づけるのは早計で、むしろもう一度アンケートを取り直して現実を 見つめた方がいいかもしれない。
 角川書店では、国語教師向けに「国語科通信」という冊子を発行していて、九月 十日の第八十七号では、早速「「無人警察」をどう読むか」を緊急特集とし、「抗 議の声明文」や「回答書」及び筒井氏の「覚書」の全文掲載と、「無人警察」を教 材として選んだ角川教科書の編集委員による読解と授業の進め方に関する四論文と、 医師によるてんかんに対する説明が紹介されている。
 しかし、「そういうのが届いていたね」程度の印象であったことは、おそらくて んかん協会の抗議内容も角川の回答書も正しく読んではいまい。
 角川書店がいくら力んで指導書を充実させても、それを使う側にその意志や必要 性を感じなければ、角川が期待する授業が行われるはずもなく、結局現場では泥縄 式の事態が生じ、てんかん協会が提示したような内容が、今度は高校教師や生徒・ 家族といった直接の体験者から持ち込まれるに違いない。

世間の認識の誤り
この問題に関する研究会やシンポジウムといった関心を持つ人たちの場であって も、通り一遍の印象に立脚した意見や質問が出ることからして、この事件は、 「興味はあるが、よくは知らない」といった芸能界のスキャンダルに近いレベル の話であることが、話を聞くときに要注意事項だなと思う。
「無人警察」が教科書問題としてピークであった時期においても積極的な理解 や関心を示さなかった大衆が次にさわぐのは、事が我が身にふりかかったときで ある。 差別表現問題は、一般論にはなり得ず、常に火の粉をかぶったものがさわぎた てることによってしか火の存在を知り得ないのかもしれない。
 この表現が人を傷つけるかどうか机上で論争してもらちがあかないのに、 「傷ついた」という人が一人でもいれば、それは謝罪や削除行動への確実な道 になる。
 そういう個別反応でしか差別を認知できないということは、もうこれだけの 差別問題の歴史をかかえて、初心者ではないのにと思う。
 火の粉がかからなければ考えなくてよく、火の粉がふりかかったらふり払う だけでは、差別はなくならない。火は至る所で燃え、そのままにしておいてい い火と、消さなければならない火とがある。消さなければならない火とは、 その火が燃えているだけではなく、他をも焼き尽くし、そのことを防ぐ必要が ある場合である。
 どの火も消さなければならないものではない。だが、見守っていかなければ ならない。そして常に声を上げた方がいいのか、見守っていればいいのか、自 分で判断をし続ける。そのことによって被害を最小限にとどめることができる し、またその火を守ることもできる。
 火をともすことも、火が発生することも、そのこと自体が責められることで はない。むしろその火が火であるというだけの理由で暴力的に消されることの 方が不自然である。火が火であることを認識し、その火を見つめるところから 対処法を考えるべきだ。火を見ないでさわぐことも、火を見たら消そうとする ことも、私は避けたいと思っている。
 「とにかく火を見てみよう」というのが、この本の発想である。この火は果 たしてどんな火だろうか。

その後の事件経過
 角川の回答書をもって、抗議行動に対する一応の決着はつき、「無人警察」 はそのまま掲載され、教科書は販売されることになった。
 角川書店に剣もほろろと返されたてんかん協会は、角川書店に対しては教科 書からの削除だけを求めて、全集や文庫の回収や作品の書き直し要求は取り下 げ、使用校や文部省にも圧力をかけたり抗議行動に出てはいない。
 もっとも、文部省が検定済みの教科書を取り下げることは不可能で、採用校 があり、角川書店が出版すれば、それが使われていくことをてんかん協会が止 めることはできない。
 ただ、訴え意見を交わすことによって、次回の検定に際して文部省がどう判 断を下すか、教師たちが支持・採用するかに影響を与え、筒井氏が教科書掲載 を自ら取り下げることを期待するだけである。
 日弁連人権擁護委員会に人権侵害として提訴したことも、それが認められれ ば削除の有力な判断材料となるからにすぎない。
 いったん通したものは撤回できないという「法」で検定をくつ返せないのな ら、てんかんに関する記述が検定基準に反していることを立証すればいい。
 「図書の内容に特定の個人、団体などの権利や利害を侵害するおそれがある ところはないこと」に抵触しないかどうか。

もともとてんかん協会は、「てんかんをもつ人々の人権を無視した表現」に ついて言っているのであり、この作品がてんかん関係者を傷つけることを憂 慮しているのであって、それは教え方で解決される問題であるとは思ってい ない。
 また、既成の作品として表現が改められる種類のものではないことから、 書き直しではなく、教科書としての使用の中止を求めただけである。
 だから抗議は筒井氏に向かわず、教科書として使用しようとする角川書店 や関係者に行ったのであるが、筒井氏はどうしたことか断筆宣言をしてしまっ た。
 その原因は、過去の作品の回収や書き直しを要求されると錯覚したのか、 「この分じゃ自分の過去の作品が危ない。今回の宣言は自分の過去の作品 を守るためでもあったんです」という断筆であり、直接の動機としては、て んかん協会の抗議に対する自分の考えがジャーナリズムに取り上げてもらえ なかったことに対する腹立ちであったようだ。
 取り上げられなかったことを筒井氏は、「おれの反論を載せて自分たちま で抗議されることを恐れた」せいと解釈し、「敵はジャーナリズムの思想的 脆弱性」と非難を投げているが、この問題に関して筒井氏は当事者ではなく、 発言は必ずしも必要ではない。筒井氏が何と発言しようが、抗議の声明文に 「著者の意図がどうであろうと」と明記してあるように、筒井氏の意見に関 係なく、書かれていることが取り上げられており、その検討相手は角川書店 であったのだ。

「覚書」に見る筒井氏の誤り
 リアルタイムで筒井氏の声を取り上げなかったことで、筒井氏は『噂の真 相』(九三年九月号)に「覚書」を発表したのだが、その中で「まず、この 作品において、小生がてんかんを持つ人を差別する意図はなかったことを申 しておきます」と前置きしているところからしても、筒井氏は「私は差別を するつもりはない」ということを何より伝えたかったのだと思う。
 いかにてんかんを差別するつもりはないかということを、「覚書」の中で てんかんの友人の例やてんかん患者をルポルタージュした際の話などを引き 合いに出して証明しているが、だからと言って「無人警察」に差別がなく、 人を傷つけるおそれはないということにはならない。
 全然別の次元で問題となっていることに筒井氏は気づかない。この事件に 対し筒井氏が発言することは意味を持たないし、それゆえ取り上げられな かったかもしれず、ジャーナリズムを非難するのは逆恨みである。
 筒井氏の立場としてできることは、反省と教科書辞退くらいなもので、自 分がどういうつもりで書いたかを力説することは滑稽ですらあった。だって それは何より、作者の言いたいことが書いてあることだけから読み取れない という作品としての不完全さを自ら示しているようなものであり、作者がい くらがなりたてても、小説は書かれたもので読まれるべきなのであるから。

これは、筒井氏の差別意識を問う問題ではなかったのに、筒井氏がむきに なって発言したために、逆に筒井氏の差別意識が露見してしまっている
 「覚書」が言う「てんかんを持つ人を差別する意図はなかった」という 意味は、差別することを目的として描いた作品ではないという意味である。  自分がてんかんに対して差別を持っていない、あるいは差別するつもりは ないという心情告白ではなく、文字どおり、「この作品において、小生がて んかんを持つ人を差別する意図はなかった」という方針の説明である。 「意図はなかった」が実際は差別をしているかもしれない。自分は意識 していないと言っているのである
 差別する者の多くが、差別をするために差別表現を使う確信犯であるこ とよりも、そんなつもりはないのにうっかりと使ってしまった言葉がたま たま差別であると言われる過失の方が多いのと全く同様に、氏には自覚が なく、まだ「差別する意図はなかった」と言うことで、無実の証明になる と思っている。
 そして「むしろてんかんに関してはある想いがあ」るとして、小学生の 頃、てんかんの友人がいて、「橋の上を歩いていて発作を起こし、転落し て溺死し」た事件を語り、「このことは今でもしばしば彼のことを夢に見 るかたちで胸に重く残っております」と添えている。「ただ、やはりそのこ とと今回のことは一応無関係のことに考えねばならないでしょう」と言い ながら、ここに持ち出してきたこのエピソードは、何の意味があるのか。 「むしろてんかんに関してはある想いがあ」るという「ある想い」とは一 体何なのか。
 友人の思い出がてんかんと結びついた記憶で、発作を起こして川に転落 して溺死したのを「今でもしばしば夢に見るかたちで胸に重く残って」い るという告白は、私たちに筒井氏の中のどういう想いを伝えるだろうか。
 その人の死がてんかんの発作による突飛なものだったがために、その衝 撃がてんかん発作の状況とともに覚えているにすぎず、そのことをこの場 に持ち出すことは、てんかんに対し自分は体験的に特別なイメージを持ち 続けていると言っているに等しくはないか
 「そのことと今回のことは一応無関係」というのは、この友人の発作や 死が「無人警察」のプロットとなっているわけではないというほどの意味 で、それはモデルや直接の動機ではないだろうが、逆にてんかんというこ とで想起されたからには、「無人警察」のてんかんのイメージに何らかの かかわりがあったかもしれないと強く推察していいかもしれない。

そして次に、「「取り締まりの対象としてしか考えていない」というの は、実は、その通りかもしれません。この作品ではてんかんを、まさに 運転に適性を欠く者として取り締まりの対象と限定して書いているから です」と述べている。その根拠を、「無人警察」に先立って取材した体 験で示し、てんかん患者が運転していて事件を起こした例があるのに、 医者がてんかん患者に運転許可を与えようとしたり、その人が事故を起 こしても医者に責任はないといった無責任な現状に驚きこわくなった三 十年近く前の体験談「精神病院ルポ」の抜粋が記載されているが、「こ うした状況が現在改善されたということを小生は聞きません。社会的な 問題として書いたルポでしたが、この問題は現在でも社会的な問題にな り得ると考えております」と悪びれない。
「精神病院ルポ」や「無人警察」を書いた当時から今に至っても、 「てんかんを持つ人に運転をしてほしくない」という筒井氏の気持ちは 変わらず、今も主張を繰り返している。そして、それは「てんかん差別 につながるものでは決してない」と確信しており、「重ねて申しますが、 是非ご理解戴きたいのは、てんかんを持つ人に運転をしてほしくないと いう小生の気持ちは、てんかん差別につながるものでは決してないとい うことです」と自信を持って理解を求めているが、「てんかんを持つ人 に運転をしてほしくない」というのが「てんかん差別につながるもので はない」と誰もが思えるかは疑問だ。そして、「てんかんであった文豪 ドフトエフスキーは尊敬するが、彼の運転する車には乗りたくないし、 運転してほしくないという、ただそれだけのことです」を、てんかんに 対する差別ではないと言い切れない気がする。
 てんかんであるために運転してほしくないということは、運転してほ しくない理由は「てんかんだから」であり、それはてんかんに対する差 別ではないのか
 その理由がたとえ正当なものであっても、相手を思いやればそういう 言い方をしないのが普通であるし、てんかんという言葉の向こうに不特 定多数のてんかん患者がどういう思いでこのセリフを受け止めるかと思 うと、配慮のない発言であると思う。
 筒井氏が「差別ではない」と言い切るのなら、「配慮のない発言」と 言い換えよう。「無人警察」におけるてんかんに関する記述が、てんかん 患者に対して「配慮のない発言」として響くのである。

 続いて「列車や車の運転には適性があり」と運転適性の問題を持ち出 しているが、筒井氏が「小生が極めて短気であり、怒りっぽいから」と 自分の意志で運転をしないのと、運転をしたいのにできないのとは次元 が異なる。
 すべてのてんかん患者が運転をしては危険だということではなく、治 療により治癒している、あるいは運転が発作と結びつかない種類のてん かん患者に対しても一律に運転の欠格事由となっている(道路交通法第 八八条一項二号)現状に対し、てんかん協会は制度の改善を推し進めて いこうとしていると声明文の中でも説明しているにもかかわらず、相変 わらず自分の主観だけから公の場で「てんかんを持つ人に運転をしてほ しくない」と言い続けることは、良識を疑われていい。三十年も前の小 説の「無人警察」において時代後れの設定が便われていることではなく、 現在、説明を受けた後も考えが変わらないということが、問題なのだ
 これは作品だけの問題ではすまない
 自動車の運転に関しては、てんかん協会は「時代遅(まま)れの考え を述べている」と感想を述べたのであり、こういうことが「てんかんに 対する正しい認識を著しく阻害」すると触れたにすぎないのだが、てん かん協会が作品の設定に口をはさんだことは、作品の削除を求める主旨 がぼけるばかりか、「日本てんかん協会が「てんかんを持つ人にも車の 運転をさせよう」という運動をしている団体のように読み取ることがで き、もしそうであるならば、これは小生、由々しきことと考えます」と いった勝手な解釈を呼んで、不本意な攻撃を受けるはめになってしまっ た。
 脳波に異常があることと発作とが必ずしも結びつかないというてんか ん協会の指摘を受けて、例外的に健常者に異常波が見られるからといっ て、「特にそれをもって車の運転を可とするような論旨には賛成できま せん」という筒井氏の言い方は、筒井氏の文章だけを読んでいる分には、 まさに「日本てんかん協会が「てんかんを持つ人にも車の運転をさせよ う」という運動をしている団体のように読み取ることができ」る。
 これらは筒井氏の読み誤りだが、日本てんかん協会の声明文と比較し て読む人はめったにいず、筒井氏の「覚書」だけを読む人の方が絶対に 多いから、この文章から逆に日本てんかん協会の言い分が推し測られた りする。
 当然、筒井氏の「覚書」を読めば、筒井氏の味方、角川の回答書を読 めば角川の味方をしたくなるように書かれているはずで、逆にてんかん 協会はそこに書かれているように理解されがちだ。

 この事件について誰かが語る場合も、関係資料のすべてではなく、お そらくどれか一つを見聞きし、それも自分の目で現物を読んだのではな く、誰かが引用したり意見を述べたものに触発されてのことであったり して、うわさ話に近い場合が少なくない。だがそれも有名人や知識人の 日にのぼったり、論文として公的に目に触れれば、信用していいことの ように見え、ますます誰も元をたださなくなる。

角川書店、筒井氏に翻弄される私たち
 「角川書店の回答は、すり替えと詭弁に満ちたものである」と回答書 を受け取った日本てんかん協会に言わしめたように、角川の回答書は、 差別に関しての意見を何ら述べてはいない。てんかん協会の個々の指摘 に対して、読みの説明をしただけで、てんかん差別に関する本質的な問 題には触れていない
 だが、てんかん協会の指摘を一つずつつぶすことによって、以上に よっててんかん協会の抗議内容が不当なものであるから、要求は受け入 れる必要がないのだということを理路整然と言ってしまった。
 それが通れば、てんかん協会が抗議した内容 ―差別に関すること―  も問題がなく解決されたのであろうと、周りが勝手に思い込む。確か にあったてんかん協会の読み誤りを指摘することによって、てんかん協 会は引き下がるしかなかったと周りに思い込ませた。まるで裁判で無罪 判決が下りたかのように、角川が強い姿勢を見せたことで周りは「無人 警察」に差別がないと思い込んでしまったのである。
 この判決(?)の後、差別のことを覆す人はいない。てんかん患者に 対する影響を心配したり、そのことで取り下げを求める運動はあるが、 多くの専門論文は、少なくとも作品には差別はないとして、でも誤解の ないよう授業で十分な理解が行われるよう検討する方法論の姿勢である。
 そのような状況の中で一年の月日が流れた。そして突然の「削除」 決定。それは、一年近く放って置かれたこの問題に決着をつけるべく 九十四年の九月になって、てんかん協会と筒井氏の間で往復書簡が計四 通交わされ、十一月七目の記者会見により正式に発表された。この事態 を私たちはどうとらえればいいのだろう。
 削除が拒否され教科書に掲載されたと聞けば差別はなかったのだと思 い、一転して削除になれば、やはりてんかん差別があって、それが問題と 思われるから削除することにしたか、「無人警察」を教科書に載せたこと によって現実に「差別」や「いじめ」が起きたととらえるのが自然であろ う。
 だが、てんかん協会や角川書店側の報告によれば、「無人警察」を原 因とする「差別」や「いじめ」は起こっていないと言う。ならば、「無 人警察」における「差別」が問題であると理論的に判断されたと思うし かない。しかも筒井氏自らが「削除」決定をしている。あれだけ反論し ていた彼が折れたということは、彼が「差別」を認めたか、表現が教科書 として適切でないと思い至ったのであろうと、普通は思う。
 ところが真相は全く逆。筒井氏は「削除」決定後の記者会見でも相変 わらず「差別はない」と主張していることからもうかがい知れるように、 今回の「削除」は、差別問題の結論ではないばかりか、「差別」に関し ては意見が分かれたまま、そのことには触れないで成立した「合意」で あったのだ。
 筒井氏は「差別はないが、削除には合意した」のであり、てんかん協 会は「削除してもらえるのであれば、差別のことは問わない」ことにし た。差別のことは棚上げされて、「削除」だけが決定されたのである。
 この決定をもって両者はこの問題をおしまいにしようとするのである が、そんな解決の仕方に世間は納得がいくであろうか。

差別問題を棚上げにした削除は成り立たない
 そもそもなぜてんかん協会が抗議を起こしたかというと、作中のてん かん記述を差別であると問題視したからではないか。そうであれば、 「差別」が筒井氏本人あるいは社会的評価によって認知されるのでなけ れば、てんかん協会の抗議意図が理解されたとは言えず、とにかく取り 下げてもらえばいいのだという発想は、てんかん協会が否定している 「差別糾弾団体」を思わせる。そればかりか、「差別がある」のであれ ば、それは教科書検定基準の「特定の個人、団体などの権利や利害を侵 害するおそれがあるところはないこと」に反するとして、教科書からの 削除を要求する正当な理由となり得るが、「差別問題」を追及しないの に削除を求めるということは、「差別表現」としてではなくて、単に 「表現」を問題にしたことになり、これは表現の事由を奪う行為になっ てしまう。

 差別ゆえの削除でなければ、一体何ゆえの削除なのか。
 それは、終結のための「削除」であった。てんかん協会との争いの。
 抗議から一年後、「教科書問題としてとらえられている「無人警察」 の問題を一刻も早く終結させてしまいたいと願う」('94・9・27「お答 えと要望」)筒井氏は、てんかん協会からの「著者の権限によって、 「無人警察」を教科書から引揚げていただきたい」という要望書 ('94・9・6)に対して、「削除や訂正などを要求した公的な抗議は今 後行わないで戴きたいという要望」を受け入れてくれるのならば、 「教科書からの削除」を受け入れてもいいという態度を見せた。
 それに対し、てんかん協会は、今後のことはわからないが、「無人 警察」に関しては、「貴殿がこの作品の教科書からの引揚げを明言さ れ、角川書店及び文部省がそれを正式に了承した時点で、今回の私た ちの問題提起(要望・抗議行動)を終了したい」('94・9・6)と告げ ており、削除が正式に決定された。
 この間、交わされたのは条件や事情のみで、削除の根拠についての話 し合いは行われていない。削除が必要かどうかは、最初の段階から意見 が分かれており、その根拠となる「差別を助長する表現」に関しては、 筒井氏が言い出した「差別を助長するか否かという議論と文学論はまっ たく噛み合うことがなく、不毛の議論となって互いの無力感だけが残る」 (「お答えと要望」)と結論づけたことにてんかん協会も妙に理解を 示し、両者の認識の「ズレ」とあきらめ問わないことによって、てんか ん協会は削除を得ようとした。
 「削除」は互いに条件を通すために利用されたのであり、削除すべ き理由が明らかになったためではない。だからこの「合意」は取り引 きの成立であって、事件の決着でも、問題の解決でもない
 「削除」が要求された抗議であるから「削除」すれば決着がつくと 考えたのは短絡的発想で、差別が立証されなければ彼らが言うところ の「教科書問題」にならないわけで、「教科書問題」になっていない のに、教科書からの削除を話し合うことのおかしさに気づかなければ ならない。加えて、当初てんかん協会の抗議相手は角川書店であった のに、いつの間にか筒井氏が取って代わっている不思議。
 文学における表現や筒井氏の差別を問題とするならともかく、「教 科書問題」として決着をつけるのに、なぜ筒井氏なのか。筒井氏が言 うところの「当事者」が話をつけてしまったら、教科書会社は「著者 の意向に反してまでも掲載し続けられない」(記者会見)と事務処理 をするしかないのか。
 一年余りで作者が取り下げをしたくなる作品を問題はないとして検 定を通してしまった文部省の責任は問われないのか。記者会見で筒井 氏が言ったように、「作家のわがまま」で教科書の内容が変わりうる 教科書作りのあり方は問題ではなかろうか。
 「無人警察」掲載に当たって角川書店は、教材として使用すること の意義や熱意を異常なまでに示した。それが、「万一、そういうこと (いじめや差別)が起こった時、いやな気分になるので」という、ま さに「作家のわがまま」に抗すべくもないのか。
 こんなことでは、教科書会社は作家の顔色をうかがい、作家は世間 の反応を気にし、それこそ自主規制で身動きがとれなくなる。これを 「教科書問題」とするのならば、教科書会社が、あるいは文部省が、 この問題を引き受けて、あくまでも教科書に責任を持たなければなら ない者たちが、教科書問題の見地から判断を下す必要がある。
 筒井氏とてんかん協会が行ったのは、個人的な取り引きで、教科書 問題の結論は出ていないと考える。

「合意」で互いに何を勝ち得たのか
 「教科書から作品を引き揚げるかわりに、てんかん協会は今後ぼ くの作品に削除などの要求をしないという互いの権利と妥協で解決で きるんじやないか」("94・12月号『マルコポーロ』の特集「筒井康 隆独占インタビュー」において「『週間文春』のインタヴュ(ママ) ーで言ったことがきっかけ」と筒井氏が引用)と思った筒井氏は、 「互いの、抗議する自由と表現の自由を尊重し、このふたつの自由が 共に何かを勝ち得たという形で終結を迎えることが望ましいと信じま す」('94・9・27「お答えと要望」)と発案し、「互いの権利を尊 重し、一歩譲った上で、互いにひとつずつ権利を勝ち取るという結 果になった」(同『マルコポーロ』)と述べているが、互いに 「譲った」ものはわかるが、何を勝ち得、何が尊重されたのだろうか。

 「無人警察」の削除は、その理由を「想像可能な事故を防ぐため の社会良識による決断」('94・9・27「お答えと要望」)としたこ とによって、表現の自由を求め、自主規制の風潮と戦っていこうと する人が、まさに進んで自主規制をしてしまった感があり、彼の言 葉は説得力を失ってしまうだろう。

 筒井氏は、この「無人警察」の問題を、「文芸における差別表現 の問題というよりは、教科書問題としてとらえられている「無人警 察」の問題」(同)としてとらえ、自分が問題にしていることとは 違う問題 ―教科書問題― なので、「一刻も早く終結させてしま いたい」(同)と軽く考えて自ら「削除」を申し出てしまったが、 「教科書だから削除する」ということが、自主規制であるというこ とに気がつかなかったのだろうか。
 筒井氏自身が書簡('94・10・26)の最後に「てんかんに関する 記述が含まれた小生の過去の作品が教科書に再度掲載されることも まずあり得ない」と予想しているように、筒井氏が削除を決定した ことで、自主規制が強まることは間違いない。本題と関係のない事 件と軽視して簡単に片づけようとしたことが、自分の首を締めるこ とになったかもしれない。

 「作品を読んでいじめや差別が起きたという事例は今のところ出 ていないが、万一、そういうことが起こった時、いやな気分になる ので作家のわがままとして角川出版に削除を頼んだ」(朝日新聞、 '94・11・8版)と記者会見で説明した筒井氏は、自主規制と闘う人 と一番遠い存在に見える。この論理でいけば、「無人警察」を教科 書から削除するだけではすまないだろう。
てんかん協会に対する往復書筒では、削除する理由を「想像可能な 事故を防ぐための社会良識による決断」としている。この「想像可 能な事故」には、愛読者による「お前たちのために筒井が断筆した」 という類のいじめも筒井氏は想定し、「これが報道された際は単純に 「無人警察」に原因があるとされるであろうことも自明であろう」 との考えに立っているようだが、てんかん者に対するこのような積 極的ないじめは、もはや作品のせいではないだろう。
 しなければならなかった想像は、てんかん協会が提出したてんか んに対する誤った記述が引き起こす誤解による差別意識の形成へ の可能性で、これをとばして、現実に起きてもいない「お前たちの ために筒井が断筆した」といういじめの例をあえて口にするのは、 脅しである。てんかん協会が抗議をしたせいでてんかん者はこうい じめられるかもしれないよという……。
 削除の理由を、自分や「無人警察」に問題があったと思われたく ないために筒井氏はずいぶん腐心をし、同じ記者会見の中で合意し た理由を「てんかん協会の立場を理解したというより同情し始めた。 文部省はそっぽを向き、人権擁護委員会は何もしない。結局、私が 何かしなくては。」(東京新聞、'94・11・8版)と発言している。 理解をしていないのに同情で筒井氏が削除を決めるというのは、何 ともおかしな話だ。
 結局、削除理由を作品以外に求めようとしたことが、愛読者が 別の種類のいじめを起こすかもしれないと筒井ファンに対して失礼 な発言を生み、必要以上の責任を感じて自ら自主規制の世界へ追い 込んでいくという逆効果になってしまった。
 確かに「削除」を中し出ることで、てんかん協会は「無人警察」 に関しては言わない約束をしてくれたが、それだけのことだ。たっ たこれだけを得るために筒井氏が譲ってしまったものが、あまりに も大きくはないか。

てんかん協会とて、削除を「勝ち得た」とは言えないかもしれない。 「無人警察」が教科書から消えさえすれば問題が解決されるわけで はないから。
 てんかん協会はもともと「無人警察」のてんかん記述に問題があ ると思ったのであり、それが教科書に載るから削除を要求したので あって、追及すべきは、てんかん記述の差別の問題である。これは 「無人警察」という作品の問題であり、文学における差別の問題で あり、筒井氏の差別の問題である。
 だが、それを問題にしてはもらえなかったことから、自ら「教科 書問題に限定」して削除を目的としてしまった。だから、予想外に 「削除」が実現しそうになったとき、肝心なことは何も話し合われ なかったのに、筒井氏に「貴協会と小生の間での議論は、ついに了 解し得なかった問題も含め、すでに議論し尽され(ママ)たものと 看倣し」(「お答えと要望」)と「了解事項しとして片づけられて しまったのだ。
 てんかん協会は当然「無人警察」の差別について決着をつけるべ きである。差別の所在を明らかにし、筒井氏がそれを認めたのでな ければ、教科書からの削除は決まっても、てんかん協会が何かを得 たことにはならない。
 この削除合意は、双方にとって誤った決定であった。やはり 「妥協」は妥協でしかない。

「当事者間で話し合う」ことの危険性
 こうして事件の経緯を丹念に追っていくと、実にめちゃくちゃで あることがわかる。  常に自分たちに都合のいい方向に話を持ってゆき、肝心な話は なされない。そうこうしているうちに別件で解決としてしまう。
 当事者同士の争いはこんなもので、駆け引きや出方で勝負が決まっ てしまうのだが、今回の事件を、私は、当事者間の問題としたくは なかった。なぜなら、差別や表現といった問題は、みんなの問題で、 この事件も筒井氏とてんかん協会と角川書店がよければいいという ものではないと思うからだ。
 差別表現等に関して筒井氏は、抗議は直接本人に行うよう希望し、 自分もまた使う場合は相手に「この表現を使いたいと言って了解を求 め、表現の自由を勝ち取っていく」('94・11・7記者会見)という 姿勢を見せているが、誰かの許可を取って書けば問題がないわけでは ないし、そうして書くことが表現の自由であるとは思わない。
 「お墨付き」をもらって書くのではなく、評価を問うために書く のが表現の自由なのではないか。好きなように書いても文句を言わ れないのが表現の自由なのではなく、書くこと、表現することが生み 出すすべてのことに対して常に自分が責任を取る覚悟で果敢に挑戦し ていくことが、表現の自由なのではないか
 今回のてんかん協会の抗議も筒井氏に直接言ったのではらちがあ かず、公的な抗議としたから取り合ってもらえたのかもしれず、私 はこれらの問題を関係者だけで処理してしまうことには賛成しかね、 みんなの問題として公開して解決を見い出していくべきだと考える。

作品の検討の重要性
 「てんかん記述が差別を助長するか」「教科書からの削除をどう するか」ばかりが両者の間で論じられてきたが、これらは、「無人 警察」に差別があるかどうかがはっきりしなければ、結論の出しよ うがなかった。
 本来、作品に差別があるかどうかが一番肝心であるにもかかわら ず、この検討がフリーパスであるのは、もう一つ、筒井氏の発言に よるところが大きい。「だって本人が差別するつもりはないと言っ てるじゃないか」と。
 本人の言うことなんかあてにならない。本人の発言は必要ない。 と言ったところで、本人が言っているんだから間違いないと信用す る人は多い。
 だが、惑わされてはいけない。私たちも筒井氏も。差別するつも りはなくても差別していることはあるし、差別は自分の意志とは別 に存在するものなのだ。
 差別だという人があれば、突然差別者が存在してしまう。

 要は、差別が読み取れるかどうかになる。
 「無人警察」に差別があるかどうかは、読むことによってしか判 断できない。
 さあ、本当に「無人警察」に差別はないか検証してみよう。


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Last updated Jan.23.2000