何だかおかしい 筒井康隆「無人警察」角川教科書てんかん差別問題

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これは、近代文藝社から1995年4月に同題名で出版された本を著者佐藤めいこ氏 のご好意により全文ホームページ版として掲載しているものです。許可なく 複製、転載はできません。表示はできるだけ原本に従いましたが、表示の制限 のため傍線は斜体、波傍線は太字の表示に置き換えました。誤字、脱字等お気づ きになりましたら、までお知 らせ戴ければ幸いです。

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II.てんかん部分を読む

    −本当に「無人警察」に差別はないか検証する−

問題となったてんかん部分
 差別を検証していく方法論として、「書かれたものを読む」という作業をして いこうと思う。
 その際のテキストは、この小説が教科書に掲載されるということで抗議が起こ り、教科書における記述で論議がなされ、今後も教材としての「無人警察」が問 われることから、教科書掲載の「無人警察」をテキストとすることにする。
 なぜこのことに断りを入れるかというと、筒井康隆の「無人警察」と、教材と しての「無人警察」は別物であると考えるからである。その理由は後に細かく述 べるが、小説という文学作品と教材としてのテキストは必ずしも同じ意味や価値 を持たないといった一般論ではなく、教材となった「無人警察」は筒井康隆の作 品である「無人警察」とは別のものになってしまったという発見であり、今回の ケースに関してだけ言う個別の事情である。
 その報告はIII章の(B)「てんかん部分の改変」の項に譲るとして、教科書をテ キストとして教材としての「無人警察」を読むことにする。

 「無人警察」におけるてんかんに関する記述は、ごく限られた一部分にまと まっている。それに該当する文章は、以下に引用するようにひと続きであり、 その中にてんかんという言葉が二度登場し、その前後には、てんかんという言葉 も、てんかんにかかわる内容もない。

 これは、未来社会で街を歩いていた主人公が、交通の取り締まりにひっか かってしまうくだりで、ひっかかった理由というのが脳波測定機で、これは てんかんの人を発見する装置だから自分は大丈夫だと思っていたのに機械が 反応して、そのことにうろたえていくまでのところにてんかんの記述が二か 所あり、てんかん協会が問題としたのもこの箇所になる。

小説のルールと差別攻撃のルール
 てんかん協会は、「てんかんを起こすおそれのある者が運転していると危 険だから、脳波測定機で運転者の脳波を検査する。異常波を出している者は、 発作を起こす前に病院へ収容されるのである。」という文章に対して、「「異 常波を出している者は、発作を起こす前に病院へ収容されるのである。」など ということは、著者の意図がどうであろうと、てんかんをもつ人々の人権を無 視した表現であり、また医学的にもてんかんに対する間違った考えに立脚する ものである。」と二つの観点から激しい抗議をしている。

 後者の医学的誤りというのは、てんかん患者のすべてが脳波に異常が現れ るとは限らず、脳波に異常がないてんかんの人もいれば、てんかんではない のに脳波に異常が出る人もあって、脳波でてんかんを特定できるとは限らない のと、その脳波も発作等があった場合、これがてんかんなのか、どういうタ イプのてんかんかを調べるためのものであって、発作もないのに事前に発作 が予知できるものではないということである。
 これは医学から言えば誤った記述であるが、それは医学的な誤りであって、 SF小説というジャンルから言えば、設定の一つにすぎず、小説の設定として は問題がない

 前者の人権無視に関しても、設定を説明したにすぎず、例えばそこで仮に 「てんかんをもつ人々の人権を無視した」としても、それは未来社会におけ る、未来におけるてんかんをもつ人々に対する、小説の中における人権の無 視であって、それは作者が現実のてんかんをもつ人に対して人権無視をして いることの証明にはならず、また現実のてんかんをもつ人に対して人権を無 視するものでもない。
 これが小説を書き、読む上でのルールであるが、小説に何を書いてもそれ は小説の中の話であって、作者には責任がなく、虚構の世界のことを真に受 ける方が悪いと白(しら)を切れるかというと、実際例、差別は書かれたと いう事実で問われている
 つまり、作者が自分とは全く違う考えを作中人物に語らせたとしても、そ こに差別が見い出されれば、対象になるのである。攻撃が作者に向くかどう かはわからないが、作品や出版元は攻撃を受ける。
 作品がいけないのであり、それを発表することがいけないのである。
 差別を書くこと自体がいけないかどうかはわからないが、書かれたものは 非難を受けるし公に出すことが認められなければ、職業作家にとっては書く ことがいけないと判断していいかもしれない。
 小説論をいくらとうとうと述べたところで、その論理がまかり通らない社 会常識にあって、現実問題として作品の内容が差別の尺度で量られ、そのこ とに小説論で対抗しようという運動を推し進めることなく、謝罪や自主規制 という形で対処してしまうのなら、それは作品の内容を差別の対象としてい いと自らが承知したも同然である。そうであれば、作品の中に差別と読み取 れる記述が存在すれば、差別があると言っていいことになる。

「無人警察」を差別問題としてしまった筒井氏
 今回のてんかん協会の抗議は、作品中の差別を指摘するものではなかった
 声明文では、「てんかんに対する差別を助長し、誤解を広める記述のある ことを知り、大きな驚きと怒りを禁じ得ない」という表現で書き出し、「こ の教科書は…てんかんに対する正しい認識を著しく阻害し、てんかんに対す る差別や偏見を助長するものでしかない」という形で「差別」という言葉が 出てくるだけである。抗議文でも同様で、「無人警察」が差別を書いている というのではなく、てんかん患者に対して現在ある差別を助長すると言って いるにすぎない。
 その意図は、現実のてんかん患者がこの小説によってより傷つくことがな く、またてんかん患者に対する理解がさらに悪くならないようにという守り の姿勢で、「無人警察」という作品や筒井氏を、差別があるとして非難する ものではない。てんかんに対して差別表現であると糾弾されたと思ったのは、 筒井氏の勇み足であった
 彼が、てんかん協会の抗議内容を「無人警察」あるいは作者に差別があるか ないかの問題にしてしまったのであり、彼が差別表現問題として引き寄せて しまった以上、てんかん差別問題として扱っていくことは、筒井氏も望むとこ ろであろうと思う。

てんかんに対する差別はあるか

交通違反の対象としてのてんかん
 てんかんに関する記述を見ていくと、まず、交通違反の対象として出てく る。
 速度違反、飲酒運転と並べられ取り締まわれる。しかもその取り締まりの 方法は、脳波測定機で異常が発見されると病院へ収容されるとある。てんか んだけが具体的な対処法が示され、スピード違反、飲酒運転は見つかった段 階でどう扱われるのかはわからない。ただ、おそらくてんかんだけが別の扱 いを受けるからわざわざ書いてあるのだろうと読み取れ、その別の扱いとは、 「病院」への「収容」なのである。
 病院への収容がどういう印象を与えるかというと、事の結果から言えば、 発作が起こる前に病院に運んでもらえ、事故が未然に防げ、発作に対する処 置ができるといったいいことづくめなのだが、そこに本人の意志が介在しな いらしいことは、「異常波を出している者は、発作を起こす前に病院へ収容 されるのである」という一方的な書き方によって察せられる。つまり、「運 転をやめる」という選択肢はそこにはない。
 なぜなら、すでにそれは交通違反だからである。速度違反や飲酒運転が未 来も警察に送られるとするならば、てんかんは病院へ送られるという意味だ。
 いや、てんかんは交通違反としてではなく、善意のサービスとして病院へ 連れて行ってもらうのだと解釈しようとしても、本人に選択権が無ければ、 それは強制連行であり、未来でもそう処遇されるのは犯罪者と考えていいだ ろう。異常波が発見された段階で速度違反や飲酒運転と同様犯罪者であり、 交通違反になるのである。
 本文でも、「この巡査ロボットは、車の交通違反を発見する機能だけを備 えている」とあって、設定としても完全にてんかんを交通違反の対象として いる
 だからここでてんかんに対して保護サービス的な善意の扱いをしてい ると取ることは正しくない。

てんかんが交通違反として登場する理由
 てんかんを交通違反の取り締まりの対象として交通違反となる存在として 登場させていること、病気であるてんかんを速度違反や飲酒運転といった自 分の意志で防げるものと同レベルで扱っていることは、つかんでおかなけれ ばならない。
 てんかんは病気である。病気がなぜ交通違反として取り締まわれるのか、 そのことに対する納得いく説明がない。
 「てんかんを起こすおそれのある者が運転していると危険だから」と言っ て、それを交通違反として取り締まっていいという論理には飛躍がある。な のに、そうすることが当たり前かのように、勝手に脳波検査をして、収容す る設定にしているのは、そうすることが当然とそのことの是非を疑ってない からに違いない。
 発作を起こすと運転していては危険な病気はほかにもある。脳卒中、心臓 発作だってそうだ。
 だが、脳卒中や心臓病ではだめなのだ。それはなぜだろうか。

 速度違反、飲酒運転は単なる交通違反の対象だが、てんかんに当たる第三 の部分は、交通違反の対象としてだけではなく、それ以降の小説の筋と大き な関連を持つ。
 この交通違反を発見する新型巡査ロボットの実体は、「何か悪いことをし た人間が、自分の罪を気にしていると、その思考波が乱れるから、それをい ちはやくキャッチして、そいつを警察へ連れてゆく」「ESP(超感覚的知覚) の能力を備えたロボット」であって、てんかんを発見するシステムが、その 延長線上に人の頭の中をチェックする目的を持っていたということがあとで わかって主人公が怒るというクライマックスの伏線というか前振りがこのて んかんの部分なのである。
 思考波の乱れを察知するシステムの登用としててんかんの脳波検査が連想 され、脳波検査をシステム化する状況として交通の取り締まりを持ち出して きたものと思われる。

てんかんイメージの錯誤
 「てんかん」は、「思考波の乱れ」に類する反応が起こる存在として登 用されたのであり、それは脳卒中や心臓発作ではイメージが違うのである。
 でも、そういうイメージとしててんかんが使用されることは、てんかんに とって迷惑なことである。なぜなら、てんかんは器質的な病で、発作も精神 の乱れによるものではないのに、発作の乱れ方が激しいので、精神に異常を きたした反応であるように思われることもしばしばで、この作品でも、てん かんが精神の乱れと結びつくイメージで取り上げられた
 それは作者のてんかんに対する誤解であり、この小説を理解することは、 とりもなおさず読者もまたてんかんをそのように受け止める、誤りの上塗り 作業を強いられることになる。
 もし、読者が、思考波の乱れとてんかんの異常波が関係ないと知っている と、何のためにてんかんが登場し、主人公がてんかんの発見装置で、自分の 思考がチェックされたのではないかと不安を持つくだりが理解できないだろ う。
 また、てんかんの異常波は発作前には出ない、あるいは検出できないこと により、てんかんの発作が脳波測定によっても事前に予知できないという現 在の医学的知識を持っていると、運転者の脳波を検査することに意味がなく なる。
 小説が読めなくなってしまうのである。それは読みの失敗である。小説は 描かれた世界を読むものであった。
 だったら、てんかんはどう読み取ればいいのか。

作中のてんかんを読み取る
 てんかんに関しては、「てんかんを起こすおそれのある者が運転している と危険だから、脳波測定機で運転者の脳波を検査する。異常波を出している 者は、発作を起こす前に病院へ収容される」と、まさに書いてあるとおりの 存在としてつかむのである
 否も応もなく一方的に検査され、強制的に病院へ収容される対象として 扱われていることは、てんかん関係者にとっては、いわれのない理不尽さを 感じるであろう。
 小説を読もうと思ったら、読者は書いてあるとおりに素直に受け止めな ければよき読者にはなれない。
 てんかんに対して医学的誤りがあるとか、人権無視をした表現だとか、作 品の欠陥を突いたり、小説を現実に引き寄せて内容に文句を言うてんかん協 会は、決してよき読者ではなかった。よき読者ではないことを角川書店は回 答書でレクチャーしているのであるが、当然のことながら、てんかん協会は よき読者になることを望んではいない。
 こういう手の内を見せた角川書店に対しては、小説の読みのルールに従っ たよき読者として疑問を投げかければ、文学上おもしろい論議が展開される ことだろうと思う。
 では、引き続き、作品を読んでいく作業をしていこう。

てんかんが交通違反とされる理由は何か
 現在でもてんかんの人が運転することは禁じられている。それはてんかん であることが免許の欠格事由となっているから、免許がないのにそれで運転 していれば、無免許運転として交通違反なのである。別に、てんかんである ことが交通違反とされる原因ではない。
 てんかんということを知らずに、あるいはそのことを隠して免許を持って 運転していたとしたら、運転しているというだけでは逮捕されない。仮に事 故を起こしたとして、その原因がてんかんであったとしても、てんかんであ ることで罪が問われるのではない。
 しかし、「無人警察」の設定では、どうもてんかんであることが交通違反 であるような印象を受けるのだ。その原因は、そのあたりの事情が書いてな いことにある。
 てんかんは免許の欠格事由であるから、無免許運転で違反なのか、未来で は免許が与えられ、だが発作が起きそうだと病院へ収容されるのか、書いて あることだけでははっきりとわからない。
 このことに対し、角川が回答書の中で、「現在の日本において、……てん かんは運転免許の欠格事由……となっています。そして、この近未来小説 においてもその設定を使っています」としているのは、早計であろう。
 速度違反、飲酒運転に関しても、現在と同じ理由や基準、対処の仕方であ るとは書いてないのだから、解釈を決めることはできず、てんかんに対して も現在の設定を使っているなんて断定できない。
 むしろ、これがSF小説であることの意味を考えるなら、現在とは異なる状 況にあると考える方が妥当かもしれない。相変わらず免許の欠格事由である のなら、本来は免許がおりないはずなのに、知らないで、あるいは隠して運 転している人がいるといった記述が必要で、それが無いということは、この 社会ではてんかんが欠格事由となっていないという設定と読む方が自然だ。 「事前に発作がチェックできる」(「覚書」)からてんかん患者でも運転が 許可され、発作が起きそうで危ないときは、警察に発見してもらうシステム になっているのではないか。
 だが、筒井氏によれば、てんかんは「まさに運転に適性を欠く者としての 取り締まりの対象と限定して書いている」と「覚書」の中ではっきりと位置 づけ、「てんかんを持つ人に運転をしてほしくないという小生の気持」を表 した作品のようであるし、「この日本てんかん協会が「てんかんを持つ人に も車の運転をさせよう」という運動をしている団体のように読み取ることが でき、もしそうであるならば、これは小生、由々しきことと考えます」とて んかん患者の免許取得に関しては反対の立場を「覚書」の段階でも貫いてい るから、この作品も同じ立場で書かれたと言ってよい。
 つまり、免許の欠格事由は当たり前で、にもかかわらず運転している人が いて危ないから、そのてんかんの人をチェックすることを警察が当然の権利 としてやってよく、異常波を出している者は病院へ収容してしまおうという 話なのである。

てんかんを交通違反とする筒井氏の論理
 「てんかんを起こすおそれのある者が運転していると危険」という判断と、 「だから、脳波測定機で運転者の脳波を検査する」対処方法が、原因と結果の ごとく当たり前のことのように結びついていることが、その論理を示している。
 ここで人権無視を言うなら、「異常波を出している者は、発作を起こす前 に病院へ収容されるのである」という処遇法にではなく、てんかんの人の脳 波を勝手にチェックするという行為にである。「てんかんは……危険だから… 脳波を検査する」という判断は、「まずいことを考えていると危険だから、 思考内容をチェックする」というのと同質の危険性がある
 なのに多くの読者がこの論理に危険な臭いをかぎつけをいのは、巧みな言 い回しによる
 それは、「てんかんを起こすおそれのあるものが運転していると危険だか ら、脳波測定機で運転者の脳波を検査する。異常波を出している者は、発作 を起こす前に病院へ収容されるのである。」の解釈を、てんかんが交通違反 としてとらえられる説明ではなく、単なるてんかんに対する福祉的な扱いな のだと取る人がいるように、「脳波測定機はてんかんを取り締まるための装 置だ」とは書いていない。が、「車の交通違反を発見する機能だけを備えて いる」ロボットの機能に脳波測定があれば、それは交通違反を発見するため のものなのである。
 しかし、その一文を書かず、てんかんに関してはいきなり「てんかんを起こ すおそれのある者が運転していると危険だから」という理由に入る。「てん かんを起こすおそれのある者が運転していると危険だから」と言われること によって、読者は「てんかんを起こすおそれのある者が運転して世いると危 険だ」という論理で読み進めていくことになる。危険だったら、こう扱われ るのは当たり前だと納得する。
 ところが、「てんかんを起こすおそれのある者が運転していると危険だか ら」という理由は、作者の判断である。それが常識や定義に聞こえるところ が巧みなのだ。
 「スピードを出したり、酒を飲むおそれのある者が運転していると危険だ から」と書いてあったら、何を根拠にその人を決めるのかと反論するだろう。 「脳波だ」と言われたら「そんなばかな」と思うくせに、てんかんは脳波で わかると言われるのに納得がいくのは、てんかんのことを知らないからにす ぎない。(てんかん発作は予知できない。)
 つまり、知らないことを理解するのは、書かれている理論に従うから、読 者は「てんかんを起こすおそれのある者が運転していると危険」と理解する。 これがこの小説の中だけのことと割り切れる読者であれば問題はないが、て んかん協会が作中の設定に抗議したように、現実や本当のことと思ってしま う人がいるから、そういう読者をあながち「小説を読むということがわかっ ていない」と放って置いてはいられないと、「てんかんに対する誤解や偏見 を助長するおそれ」を心配するのだ。
 てんかんだけが可能性で取り締まわれるのであり、その不可解さを納得さ せる説明のために「てんかんを起こすおそれのある人が運転していると危 険だから」という、理由を示す文章がてんかんに限ってわざわざ入ったので ある。
 でも、事故を起こすことが危険なのは言うまでもないことで、ここで言お うとしたのはそのことではなく、てんかんが事故につながるというメッセー ジである。
 てんかんが必ずしも発作を伴わず、運転の発作が多いわけでもない現実な のに、てんかんは頻繁に発作を起こすもので、そんな人たちが運転するなん て危険だというイメージで語られることは強引至極である。だが、それを読 者は素直に心に刻んで、だから承諾なく脳波検査が行われてよいと作者と共 に当然のこととして受け止めるのである。

てんかんは交通違反の対象にしただけ
 作者は後半の主題とも言うべき部分で、主人公に人の思考内容まで無許可 で国がチェックし始めるという管理社会の危険性に叫び声を上げさせるので あるが、その作者がてんかんに対しては同じことをしていることに気づいて いない。  未来社会のシステムに疑問を感じなかった主人公が、火の粉が自分の身に ふりかかってみてはじめてその熱さに気づいた、というのがこの小説の皮肉 でもあるのだが、主人公も作者も火の粉は熱いとさわいではみたが、火の元 は見ないといった文句に終わっており、その火は自分が捨てたたばこであっ たかもしれない。
 疑問を抱かない未来社会のシステムの一つとしててんかんをこう描いたと あえて解釈しようとしても、てんかんは後半部と関連は持たず深読みの無理 がある。
 やはり「てんかん」は、思考波との関係で脳波検査が連想されて、後半へ の展開のきっかけとしてその場限りの材料として提示され、そう扱うことが 全体の読みの中では適切と思う。

てんかんの何が交通違反なのか
 てんかんが交通違反であることの理由は書いてない以上、推察するしかな く、作者の意見を参考に読み取ろうとすれば、「てんかんだから」になる。
 作者の意見を排除して、本文そのものから読み取ろうとすれば、病院行きは、 「てんかんであること」ではなく、「発作を起こすおそれがある」場合である。
 だからと言って、「てんかんであること」だけでは交通違反にならないじゃ ないかという反論は成り立たない。なぜならそれは、ならば発作を起こしそうだ と突然交通違反になるのかということが言えなければならないからだ。もちろん 後者は、文脈上言える。そう書いてあると言ってよい。

「てんかんを起こすおそれのある者」の解釈
 何を交通違反としているかの説明の場に、速度違反、飲酒運転と並んで出て きたてんかんを起こすおそれのある者」は、速度違反、飲酒運転と同様に、 交通違反の対象なのだ。
 だが、「てんかんを起こすおそれのある者」というのは、てんかん患者では ないか。
 てんかん患者のうちの発作を起こしそうな人で、確かに今にも発作を起こし そうな人は危険であろうが、この「てんかんを起こすおそれのある者」という 意味は、その直前状態を指しているとは限らない
 言葉では「てんかんを起こすおそれのある者」であるが、この言い方は差別 語の言い換えに見られるのと同じに言葉をあいまいにしただけで、何を意味し ているかは具体的に探ってみないとわからない。つまり、てんかんの発作はい つ起こるかわからないから、てんかん患者自体が常に「てんかんを起こすおそ れのある者」であり、そういった扱いを実際にされている。
 だからこの言葉の実態は、てんかん患者一般を指している可能性があり、て んかん患者は常に危険だというイメージを持ち、与えているかもしれない。  そのことが「てんかんに対する誤解」でもあって、まさに「てんかんに対す る差別を助長し、誤解を広める記述」(「声明文」)と言われるゆえんでもあ るのだが、「てんかんを起こすおそれのある者」という表現をとったことに よって、ただその場限りの言い逃れができるにすぎず、実態は、てんかん患者 をてんかんをいつ起こすかわからない危険な存在であると言っているに等しい。

てんかんを交通違反にする設定の無理
 逆に「てんかんを起こすおそれのある者」を発作直前状態にある者と説明し たら、発作を起こしそうだという病気の症状をもって、交通違反とされるのか と、むしろそのことの方がより納得がいかない。いや、その症状の人は、捕ま えるのではなく、病院へ連れていくだけだと言うのなら、交通違反で捕まる理 由は、やっぱり「てんかんであること」になってしまう。
 てんかんであることも、その発作直前時も交通違反の対象とならないと言う のであれば、交通違反の対象として登場させられたてんかんは一体何なのか根 本がくずれてしまうから、それだけは言えない。
 この文章は、てんかん患者はいつ発作を起こすかわからない危険な存在であ るから、常に測定機で監視し、異常波が出ていたら捕まえようという発想で、 そのやり方は無断で人の脳波を調べるのであり、異常波が出た段階で交通違反 になるといった突然の病状によって交通違反が確定するのであり、そのことを もってして病院に収容されるという一方的な行為が取られる。たとえSF小説と はいえ、その設定に無理があることは、小説の書き方として指摘できるであろう。

てんかんを交通違反とする設定をどう読むか
 てんかんを交通違反にすることの設定の無理に気づかないのは、作者自身が 「てんかんを持つ人に運転をしてほしくない」という思いを持って、この作品 の中で「まさに運転に適性を欠く者として」実践したにほかならないからで、 そのことに多くの読者も特別ひっかかりを感じずに読めるということは、何よ り読者のてんかんに対する理解が誤っている証明でもある。
 その記述に疑問を感じるのが主にてんかん関係者であるということが、こ のてんかん問題を当事者が差別表現に敏感になっているだけという感情論で 処理されてしまう原因ともなって二重の不幸を招いているが、これは筒井氏 が告白したように、確かに「てんかんを運転に適性を欠く者」として書いたの であり、そういう意図を持って書かれたのであり、そう読み取ることが正しい。

 この文章は、実質的には、てんかん患者の運転の禁止を訴えたものである。
 てんかん患者に免許があろうとなかろうと、てんかん患者が監視の対象と なっており、逮捕の対象となっているということは、本来的には禁止を求めて いるのである。
 だが、皮肉なことに、現在の医学では、てんかんは治り、また発作を薬で 抑制することもでき、また運転と発作が必ずしも結びつかない人もあること がわかり、未来社会においててんかんであることが欠格事由となっていない のであれば、これらの人たちは堂々と運転できるということになる。てんか んの発作をこうして未然に見つけてもらえるのならば、運転が発作を招くか もしれない種類のてんかんの人でさえ、安心してハンドルを握れると言って よい。
 そういうことであれば、この未来社会は、てんかん患者が運転することを 国がバックアップしていることになり、てんかん患者だけに特別親切に国が 対応していることになる。
 交通違反で捕まったらそれはその時だと速度違反や飲酒運転を承知でやる 人は多いのだから、それから比べれば運転時にてんかんの発作が起こりうる 確率はかなり低く、よほど特定の人以外は文字通り万が一の心配にすぎない。 万が一とて、交通違反になるだけで、事故は防げる。これはてんかん患者に とって捕まっても十分と思える好遇であると言わなければならない。
 筒井氏はもちろんそういう未来社会を描こうとしたり、理想としているの ではない。
 社会の絶対数としててんかん患者であることが少数派で、その中でたまた ま運転時に発作が起こりうる確率が、一般の誰でもが自分の意志やその場の 状況で起こしうる速度違反や飲酒運転に比べてかなり低いものであるにもか かわらず、そのてんかんの異常波を発見するためにわざわざそれを検査する システムを搭載するということは、よほどの福祉か悪意がなければあり得な い。それをてんかん患者に対する国家の福祉と取ったら、せっかく「てんか んを運転に適性を欠く者としての取り締まりの対象と限定して書いた」 (「覚書」)筒井氏に気の毒である。
 てんかん患者の運転に否定的な作者の意見を考慮すると、てんかん患者を 捕まえるためにしていると言ってよい。特定の少数派に向かってこれだけの 設備を考案するということ自体が、すでに作者のてんかん患者に対して特別 な感情を示しており、「てんかんを持つ人に車の運転をしてほしくない」の だという思いを伝えるための記述であったと推測してよい。
 現実社会でなおざりにされているてんかん患者の運転を許せない作者が、 末来社会において自分がやりたいことを警察(国)に合法的にやらせる設 定を描くことによって、自分の考えの正当性を訴えようとしたのである

作品のプロットとてんかんの関係
 作品が何を目的としているかは、読む側と書く側で異なって当たり前で、 結果としての作品から読み取れることを、作者が意識をして書いたり、それ を目的や主題として描いたとは限らない。
 筒井氏が「創作作法以前」の中で、「頭の中に浮かんだこと、真の自分の 無意識内から湧き出てきたアイディアのフラグメント(断片)だけによって 作品を組み立てる場合がずっと多いのである」と言っているように、作品は 初めからどう読んでもらうかを考えながら、それに従って書いていくという ことはまずない。読み取れるテーマと作者のテーマは違うかもしれないし、 結果としての主題と作者の動機は関係ないかもしれない。
 「無人警察」の主題は、人の思考内容をも管理しようとする未来社会に対 する疑問やおそれと取れるかもしれないが、それは結果論であって、作者が どういうつもりでこの小説を書き出したかということはわからない。そのこ とは作品を読む上では必要はないが、探ることは別の楽しみとしておもしろ い。

 この作品が、てんかんを取材した「精神病院ルポ」という作品の直後に書 かれたことからして、てんかんに対する思いが強く残っていて当たり前だ。 てんかんに対するある思いがこの作品を書かせたと言っていいかもしれない。 なぜなら、作者自身、てんかんに対する思いが強くあったことを「覚書」の 中でも告白しているから。その思いを伝えるがために、作品化していこうと したことは自然の流れである。
 精神病院での取材において脳波検査機を知ったことから、この機械が将来 的には人の思考内容まで見透かすのではないかと医学の進歩に対する驚異を 感じ、それを管理に利用しようとする「無人警察」のプロットが生まれたと いうことは十分想像できる。
 その際、てんかんを扱わなくても脳波検査機のことだけでも十分このプロ ットは成り立つ。なのにあえてそこにてんかんを持ち出してきたのは、てん かんに対する作者の思い入れがあったからである。
 SF小説において何も実際の病名を使う必要はない。てんかんを持ち出さな くても脳波検査機の話をすることもできる。
 でも筒井氏はてんかんを選んだ。それはてんかんのことを書きたかったか らだ。取材で抱いた「てんかんを持つ人に運転をしてほしくない」という思 いを、「運転に適性を欠く者としての取り締まりの対象」として書いたのだ。
 「無人警察」の発想の順序としては、管理社会のプロットよりも、「てん かんを持つ人に運転をしてほしくない」という思いの方が先であったかもし れない。
 非常にうまいのは、その思いを潜在意識には伝えるが、表面上はてんかん はプロットに直接かかわらないところで処理され、その思いが目立ちすぎな かったことだ。

発覚した筒井氏の新たな問題
 二十九年間も多くの読者はてんかん記述に目をとめずさらりと受け流して きたのに、教科書掲載を機に読んだてんかん協会がその真意に気づいてし まったのだった。
 アンテナに引っかかったのは、気にする人特有の敏感さであったかもしれ ないが、そこに許し難いものを感じたのは、錯覚ではなかった。
 そのことを弁明しようとした筒井氏が見せたその後の数々の発言は、予想 外に相手や状況を無視した強烈な主張で、てんかんに限らず差別一般に対す る無知や誤解を露呈した。このことによって、この問題は単に「無人警察」 の表現上の問題ではなく、筒井氏が今後こういう発言をしていくことも、新 たな問題として問われることになるだろう。
 現在の筒井氏自身のことは別問題としても、「無人警察」に書いたことは、 一見何の問題もなく思えるが、実は潜在意識に働きかけててんかんに対しで 作者と同じ考えを増幅させるものであり、すでに二十九年間もそのことが持 ち出されなかったということが洗脳に成功した証拠である。この上教科書と なってより多くの人に強制的に洗脳が行われることは避けなければならない と、てんかん協会は立ち上がったのだ。
 それを、「差別を助長する表現がある」と非常におとなしい形で取り上げ、 筒井氏のことを咎めてはいないのに、筒井氏がゆえなき差別を受けたことが 断筆の原因であるかのように世間に対して言い、てんかんに対しては理解し ないばかりか、相変わらず同じ主張を続けているのは、困ったものだと思う。
 差別ならずとも、不当な表現や扱いに関しては、それが一回書かれたとい うことよりも、そのことが繰り返し起こりうるという可能性が問題で、その 繰り返しを防ぐために本人に事実を知らせるという意味で、抗議や糾弾が行 われるのだが、そのことを意に介さないと、過ちを何度でも繰り返す。本人 が過ちと知って、あるいは主張を持ってやっているならまだしも、過ちと気 づかない場合は、所をわきまえず行うから始末が悪い。

見えない差別を反省する目
 この「無人警察」の問題は、一般の差別表現問 題と違って、誰にでも一見してわかるような既成の差別語として差別表現が 明確に存在するわけではない。
 「てんかん」が差別用語なのではないし、「てんかん」を扱うことがいけ ないのでもない。その扱われ方だが、それも多くの人が見過ごし、指摘され ても「そうだろうか」と首をかしげ、立ち止まって考えても「深読みのしす ぎなんじやないの」と気にとめないほどである。
 だが、それはてんかんが自分に関係ない人たちの反応であって、てんかん 関係者はかなりの比率をもって、もしかしたらすべての人が、不快を示すか もしれない。
 現にてんかん協会のほかにも、何人もの人がそれを訴えているのに、それ を無視できるのは、差別する者に特有な傲慢な態度ではないかと思った。

 差別にかかわりのない人が差別を発見することは難しい。だが、大多数の 差別にかかわりのない人が現実に一番差別をしているかもしれず、それは知 らないではすまされない。
 もし、あの「てんかん」が同じ脳の病気 −脳卒中や脳腫瘍だったらどう だろうか。すぐ「脳」卒中や脳腫瘍を交通違反の対象として捕まえるのはお かしいと思います」と言われてしまいそうだ。いや、それ以前に、それが交 通違反の対象と読み取る人はいないだろう。きっと、交通違反の話とは別に、 病院へ運ばれるという医療システムとして読まれる。
 ところが「てんかん」だったら、交通違反の対象として取り締まわれると 聞いても、納得してしまう。この差が、多くのてんがんに関係ない人が持っ ている差別意識だ
 同じ逮捕でも、脳卒中や脳腫瘍に同情的になるのは、脳卒中や脳腫瘍は、 自分がいつなるかしれず、そのとき交通違反にされては嫌だという直接の利 害感情が働くからで、てんかんは自分と関係ないと思うから、どうでもいい のである。実際は、てんかんもまた、脳卒中や心臓発作と同じく、誰にでも ある日突然起こる可能性がある病気であるのだから、「私はてんかんではな い」と将来的に安心できるわけではないのだが、てんかんは体質や気質の病 であるように理解されがちなのだ。
 現に、筒井氏自身が原作では「私にはテンカンの素質はないはずだし」と 書いていることから、筒井氏のそういう理解の基に書かれた内容であること は明らかである。教科書検定に際して、文部省から検定意見が付いてその部 分を「私はてんかんではないはずだし」に改めたが、これを書いた時の作者 の理解まで改め、作品そのものが新たな理解によって書き直されたものでは ないので、てんかんに対して筒井氏が抱いているイメージや感情は、意識す るしないにかかわらず読み取れる。それが頭ではなく感情として何となく感 じてしまっていることが、より危険であるのだ
 てんかん協会が抗議文の中で、「「無人警察」はてんかんに対する誤解と 偏見を基礎に作られた作品」と断言しているように、まさにこの作品は、誤 解と偏見を基礎に成り立っている。意識的に誤解と偏見を持って書き、それ を広めることを目的として書いた作品ではないけれども、その誤解と偏見が 無ければこの作品は生まれてはいなかった。
 意識や意図の有無にかかわらず差別は存在する。
 筒井氏や抵抗を感じない読者の「てんかんを発見するためだったら、無断 で脳波を検査して逮捕していいんじゃないの」という他人事の発想は、てん かんの人のプライバシーを思いやる配慮に欠けている
 それは自分が決してその立場になることはないという冷たさである。差別 の根底には必ずその冷たさがあり、表現そのものではなくその冷たさが人に 痛みを与えるのである。

 「無人警察」を読んで差別がないと思ったということが、私たちもまた 筒井氏と同じ視点に立って、こう扱われて当然のこととして読んでいたのだ ということに気づき、自分にそう思わせた表現を、それが巧みであるがゆえ に危険であるととらえ、この小説に限らず、自分の日常生活のすべてがその 危険を含んでいるものであり、自分が意識せずして加害者となっているかも しれないことに反省を促す意味で、たまたま話題にのぼった小説を題材に、 執拗に読みの作業を試みてみた。
 ここまでしなければ、私たちの中にある差別は見えてこない。見える差 別より見えない差別の方がこわい。
 見えない人には見えるようにしなければ、取り合ってはもらえない。取 り合わない態度が、その先いくつもの差別を生むかわからない。
 自分が当事者であるないにかかわらず、痛いと言う人がいたら、とりあ えず取り合ってみるという姿勢こそ大切であり、そうやって機会あるごと に自分が目を開いていかなければ、差別問題だけではなく何事に対しても 正しく把握するカはつかない。

間違っている差別対処法
 指摘されないために差別用語を調べて使わないようにするという姿勢は、 差別が何であるか自分がどんどんわからなくなる行為であると思う。
 差別語を使うのがいけないのではなく、その言葉によって人を傷つけた り、誤解を与えたり、迷惑をかけることが問われるのであり、それは差別 語に限らない。
 そのことが十分考えられて便われたのではないという不誠実さや不十分 さ、未熟さ、配慮の足りなさが責められるのであり、そのことはもう一度 省みて、自分にとってその非が認められなければ、主張していくこともま た大切なことと思う。
 筒井氏は相も変わらず「差別はない」と言い切ってもかまわない。それ はそれで一つの主張だから、世間のルールに誰もが合わせなければならな いわけではないということを見せてくれてもいい。そうしてくれれば面と 向かって「差別がある」とも言いやすく、具体的な論議が繰り広げられる というものである。
 筒井氏は「ジャーナリズムが論争すべき土俵に僕を上げてくれなかった」 (東京新聞「いんたびゅう」)とすねているが、自分もまた欠場すること で試合をうやむやにしようとしている。

断筆宣言をした筒井氏への手紙
 「炭坑のカナリア」(「断筆宣言」)を気取っての断筆宣言であろう か。
 炭坑のカナリアは、鳴いて危険を知らせるために置かれる。そして、逃 げることは許されない。
 炭坑のカナリアだって逃げる努力をする。筒井氏には鍵もかかっていな いし、戸も開いている。なのに気づかないのか、気づいていても出ないで 死を選ぼうとするのか。その姿勢には同情できない。
 炭坑のカナリアは、自分の意志ではなく、他人の目的のために役割を強 要される。でも作家は、社会の危険を知らせるために、他人によって書か されているわけではない。自らの意志で書き始めたのだろう。それは何の ためだったのか。それはもうやめてもかまわないのか。
 自分のやりたいことをやったら、人の言うことにも耳を傾けなければな らない。自分のしたことには責任を取らなければならないということであ る。自らの意志でしたことに対して反省するのか確信するのか、問われた ことに対して答えなければならない。
 筒井氏は書く書かないの自由な立場にあるのではないだろう。
 筒井氏は同業であるペンで食べるジャーナリズムを思想が脆弱であると 批判した(「断筆宣言」)のであるし、差別表現等に関しては「ブラック ・ユーモアという文学的伝統を守ろうとしている作家のひとり」(「覚書」) という答え方をした。その後実践で主張することなしに、断筆宣言で逃げ るなんて、真剣に話し合おうとしている人たちに対して失礼ではないだろ うか。
 断筆したことで過去の作品の形は守れるかもしれないが、自分は守れな い。何か言おうとしたら、人に書いてもらわなければならない。人に書い てもらうことの不確かさを、筒井氏が一番体験したのではなかったのか。
 自分が書くことの贅沢を忘れるほど筒井氏は有名になりすぎたのかもし れない。書きたくても書かせてくれないことが多いのに、書かせてくれる のに書かないことの不遜さには共感できない。

 筒井氏は文学における論争において中途退場してしまった。その無念さ を悔やむことはないのだろうか。ペンが剣より強いことを誰よりも知って いたのは作家である筒井氏ではなかったのか。
 自分の作品を大切に思うのは、それが剣より強く、自分にとって最大の 武器と思えたからではないのか。
 このペンの威力によって頂点を極めた筒井氏が、その武器を簡単に捨て られるとは思わない。
 ペンに受けた挑戦は、ペンで返さなければ死んでも死にきれなくはない か。作家とは、それほどペンに思いのある人たちと信じたい。

まとめ・「無人警察」のどこが差別か
 てんかんを登場させながらも、主題とのかかわりの中で 何のフォロー もしていない、その思想性のない単なる材料としての無神経だ扱いは、責 められてしかるべきである。
 なぜ、てんかんでなければならなかったのか、なぜ、てんかんがああ書 かれているのか −理由が説明できない登場の仕方である。
 人の意識や潜在意識を探ることをプライバシーの侵害だと叫ぶ主人公は、 てんかんの人の脳波を無断で検査することに疑問を抱いていなかった自分 を反省することはない。てんかんに対して同質の誤りを自分もまた犯して いるということに主人公が気づいていないからであり、それは筒井氏もま た気づいていない。
 てんかんの発作を調べるためには無断で人の脳波を調べてもよいのだと いう発想は、てんかんの人はそういう扱いを受けたっていいという内容で、 差別である
 その判断を書くことは、書き方によっては差別にはならない。後に語ろ うとする差別に対する意見を述べる反対材料として作者が意図的に扱って いる場合である。
 ところがこの作品では、二度とてんかんに触れることはない。書かれた てんかん差別は、救われることがないのである

 てんかんに許した無断検査を自分がされたということに気づかず、ただ ただ腹を立てる主人公で終わっているこの作品には、差別に対する思想が ない。
 作品にないばかりか、さまざまな発言から、筒井氏自身にもない。思想 がないのに、ただ差別だけが存在し、そのことに今もって本人が気づいて いないことが、差別を責められるゆえんである。


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Last updated Jan.23.2000