何だかおかしい 筒井康隆「無人警察」角川教科書てんかん差別問題

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これは、近代文藝社から1995年4月に同題名で出版された本を著者佐藤めいこ氏 のご好意により全文ホームページ版として掲載しているものです。許可なく 複製、転載はできません。表示はできるだけ原本に従いましたが、表示の制限 のため傍線は斜体、波傍線は太字の表示に置き換えました。誤字、脱字等お気づ きになりましたら、までお知 らせ戴ければ幸いです。

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III.「無人警察」が教材になる過程

    −改変が適切であったか検証する−  
 
(A)表記面の改変

文部省の教科書検定とは
 ある作品が教科書に採用されるには、文部省の教科書検定に合格しなければ ならない。つまり、その作品は検定基準に合致していることが要求される。
 文部省の検定基準にはいろいろな項目があって、作品そのままの形がそれを 完全に満たしていることは少ないから、扱いたい作品がそのままの形で合致し ていない場合は、合致する方向に直すことが認められている。その結果合致し ていれば合格となり、合致していない場合は文部省の検定意見が付いて戻され、 検討結果によりその件が解決していれば検定合格となる。
 検定意見は、不合格を決めるものではなく、合格に向けて修正を求める前向 きな対策指示である。ということは、検定を受けるに際して、教科書会社が基 準に合致するよう作品の修正を行うことも、検定意見によってさらなる修正が 行われることも、堂々と認められたシステムなのである。
 筒井康隆の「無人警察」は、角川書店が提出したものに、「てんかんという 病気に対する誤りや不十分な認識に基づく記述がある」として修正を求める検 定意見が付いたが、本文の一部を書き変え、注を付けることによって、合格と なった。
 合格となったということは、修正された現在の教科書において、逆にその部分 (てんかんにかかわること)には問題がないと判断されるということでもある。
 その文部省に対する検定合格取り下げ要求に対して、「検定ですでに意見を付 し、修正もなされている。判断は適正」と答えた。
 検定合格になった教科書を後に文部省の側が取り下げたという前例はなく、 この件に関しても文部省は今後も取り下げる意志はない。
 一度検定合格した教科書は、学習指導要領が変わらない限り有効で、教科書 会社が作品の変更、内容の変更などをして文部省に検定を求めない限り、すで に合格となった検定内容が問われることはない。

 もともと教科書検定は、教科書会社と文部省の問題で、そこに外部の者が口 をはさむシステムはない。
 今回のてんかん協会の抗議は、検定合格教科書の公開展示の期間に翌年度の 教科書を目にしたことがきっかけであったが、その段階がすでに検定済みであ ることから、検定内容に文句をつけても遅い。かと言って、検定前の教科書が 外部の目に触れることはないから、結局教科書の内容に検定前に外部の者が口 をはさむ機会はないし、検定後は無意味になる。
 ただ、世論を作っていくことで、採用校を減らしたり、角川書店に取り下げ を迫ることは可能で、文部省に対しても、次回の検定(それは最低四年後)の 際に考慮の対象としてもらうことはできる。だが、それは非常に先の長い話で、 現実には九四年の四月から高校の現場でこの教科書は使用される。(採択予定 数は、全国で四万二干冊、全体の二・○%(教育専門紙「内外教育」の調べ) というのは、与える影響が多いのか少ないのか。)
 そのことに文部省や角川書店はもちろんのこと、実際に触れる高校教師や生 徒、父兄が問題視している様子はないが、本当に大丈夫だろうか。「大丈夫か」 というのは、てんかん関係者が傷つく…ということではなく、文部省や角川書 店や筒井氏や現場の教師たちは「大丈夫か」ということである。
 「無人警察」は大丈夫という判断は、「差別はない」「誤解や偏見を助長す るおそれはない」という文部省や角川書店や筒井氏や何人かの弁護者の意見に 支えられでいる。それが覆ったらおしまいである
 それが覆されることは本当にないのか

 III章では、教科書検定に際する角川書店、文部省、筒井氏の判断が適切だった かどうかを検証していくことにする。

表記の書き換えの現実
 筒井康隆の小説が教科書に掲載されるに当たって、変更された箇所が百十ほ どある。

教材としての「無人警察」において書き換えの行われた表記一覧
[原文(教科書がベースとしたS58年刊「筒井康隆全集」第一巻所収)→教科書の 表記順序は登場順。右段は処理に納得がいかないもの。]

(A)平仮名→漢字(常用漢字は漢字にする)
 乗りまわす→乗り回す 見まわす→見回す
 ふき出す→噴き出す  遠まわり→遠回り
 投げこむ→投げ込む(丁) どなりこむ→どなり込む
 よごれた→汚れた   思いこむ→思い込む
 そなえる→備える
 つく→付く  とりつけ→取り付け
 とり違える→取り違える  お引きとり→お引き取り
 なおす→直す  ひっつかむ→引っつかむ
 いく→行く
 つれる→連れる
 こわす→壊す
 ひびく→響く
 つづける→続ける
 立ちあがる→立ち上がる(丁)
 たずねた→尋ねた
 いう→言う(丁)
 つもりにつもった→積もりに積もった
 はじめた→始めた
 建物ぞい→建物沿い
 あわてて→慌てて
 はずかしい→恥ずかしい
 せまい→狭い
 やわらか→柔らか
 道ばた→道端
 町かど→街角
 まっ黒→真っ黒
 環境のなか→…の中  車のなか→車の中
 あと→後       心のなか→心の中
 ひと振り→一振り  ひと息→一息
 ひとり→一人(丁) 何ひとつ→何一つ
 おぼえ→覚え(丁)
 心あたり→心当たり
 かたわら→傍ら
 いっしょ→一緒
 おおぜい→大勢
 われわれ→我々
 かっこう→格好
 なっとく→納得
 いや→嫌・いやな→嫌な
 仕かけ→仕掛け
 腕時計がわり→…代わり
 さかん→盛ん
 しかたない→仕方ない
 とくに→特に
 すこし→少し
 たいてい→大抵
 はじめて→初めて
 ほんとうに→本当に
 おおいに→大いに
 さっそく→早速
 
(B)漢字→平仮名
 その上→そのうえ
 怒鳴りつける→どなりつける
 
 
 歩き出す→だす
 
 
 
 
 
 その時→そのとき
 見た時→見たとき
 叫んだ時→叫んだとき
 
 
 
(C)常用漢字以外はルビをふる
 防塵→防塵(ぼうじん)(重要語句)
 身体→身体(からだ)
 奴→奴(やつ)
 体躯→体躯(たいく)
 冒涜→冒涜(ぼうとく)(重要語句)
 
(D)送り仮名
 刃向った→刃向かった
 曲って→曲がって
 
(E)誤り
 町かど→街角
 高さに登り→上り
 ロボットなど作る→造る
 
(F)統一
 「  。」→「  」
 三十センチ→三〇センチ
 シティ→シティー
 ボデー→ボディー
 シガレットケース→シガレット・ケース
 
((G))片仮名→平仮名
 ゴミ箱→ごみ箱
 紙クズ→紙くず
 ウソ発見器→うそ発見器
 テンカン→てんかん
 ワイセツ→わいせつ
 ゾッとした→ぞっとした
 ホッとした→ほっとした
 バカな→ばかな
 ニヤニヤ→にやにや
 
((H))文章の書き変え
 わたしにはテンカンの素質はないはずだし→
  私はてんかんではないはずだし
 
 
 
 
 
 
 見ける→ママ
 り入れる→ママ
 
 
 目をめる→ママ
 
 
 かる→ママ
 いばる→ママ
 
 
 
 失礼をいたしましたか↓…致しましたか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 いっとき→一時
 
 ようす→様子
 
 
 
 
 
 
 
 いやみ→嫌み
 
 
 
 
 
 だいいち→ママ
 まったく→ママ
 いったい→ママ
 
 
 
 
 いち早く→いちはや
 
 無駄→むだ
 僕→ぼく
 歩いて来はじめた→あるいて始めた
 彼はわたしの目と鼻の先までやってた(ママ)
 早く出てはた(ママ)
 連行されてた(ママ)
 ついてた(ママ)
 つれて来られた→連れてられた
 
 考えるのをやめた時(ママ)
 
 捕まったところを見ると→みると
 感心して見せた→みせた
 
 
 
 
 ぼうぜん→呆然(ぼうぜん)(重要語句)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 ご覧のように、百十ある変更の主なものは表記の書き換えで、多い順に挙げる と、

となる。

 百十のうち、未習の漢字や不適当な文字違い、送り仮名を改めたものは一割し かなく、残りの大半は、誤りではないが書き換えたもので、その中には表記上、 文法上不適当な方向に換えられたり、書き換えたのと同様の理由で書き換えられ てもいいはずのものが残っていたりする不徹底や判断に疑問を感じるものが二十七 ほどある
 百か所近くが誤りではないのに書き換えられたということは、何を示すかという と、教科書に掲載される際には、非常に多くの書き換えが行われるという事実で ある。

表記の書き換えの理由
 作品によっては、ページ数の関係で省略をしたり、それを内容的に補ったりする ための変更、また不適切な表現の削除や書き変えなど、もっと大きな変更が行われ ることもあるが、その点から言えばこの作品は、内容にかかわる文章の書き変えは 一か所だけであったし、全文掲載であるから、極めて原作に近い形で学習すること ができる方である。
 それなのになぜ百か所近くも手が入れられたかと言うと、そうすることが適当と 教科書会社が判断したからである。
 なぜ誤りでもないものを書き換えることが適当なのか
 角川書店によれば、>
 (1)常用漢字で書けるものは、それが表記上妥当であれば漢字にする。>
 (2)特に片仮名で書くことに意味が認められないものは平仮名にする。>
 という大きな二つの原則に基づく。>

表記の書き換えを文部省は要求しているか
 こう対応するのは、教科書検定がこれを要求し、こうしないと検定が通らないか らと角川書店は説明するが、教科書検定基準にこの項目はない。
 (2)に関しては、小・中学校の教科書検定の表記の基準のところに、「平仮名を用 いること」というのがあるが、これは主たる文章は漢字と平仮名で書くといった意 味で、書く場合に対する指導で、片仮名で書いてある原作を平仮名に直せという意 味ではないだろう。
 ましてこの基準は小・中学校に関してであり、高校では「学習指導上の配慮によ る表現内容の改変は最小限にとどめ、原則として、原作を尊重していること」の一 項のみが表記に関することだとして挙げられていることからして、むしろ特に必要 のない限り書き換えるべきではないと読める。にもかかわらず書き換えられるとい うことは、必要があるという判断なのであり、その理由は「学習指導上の配慮」で ある。
 「学習指導上の配慮」とは何かと言うと、表記に関しては、未習漢字は使わない、 あるいはルビをふる、学習されるべき表記と異なる場合は指定された規範に合わせ るといったことで、書ける漢字は漢字に直すということが含まれているとは思わな い。
 ある表現を漢字で書くか、平仮名で書くかといったことは、必ずしも決められて いなく、それが学習した常用漢字で書けるからといって、漢字で書かなければなら ない、あるいは漢字で書くことの方が望ましいといった判断は検定基準にはない。 なのに教科書においてそれが実施され、文部省が検定合格にすると、そうすること が望ましい、いやそうしなければならないのだという判断が、出版社だけではなく、 教師や生徒に生じることになる。積極的にそう明言し、指導しなくても、教科書に そう書いてある、教科書がそうしている、そのことを文部省が認めたということで、 十分にその判断を読み取る根拠となる。

操作としての書き換え
 確かに片仮名で書くことは、作者にとっても作品にとってもそれはどうしても片 仮名でなければならないといったような意図的な重大な意味はもっていなかったか もしれないが、そうでありながらも片仮名を選んだということはそれが意識・無意 識にかかわらず、そうしたいという意志が作家の中にあったのであり、書かれた表 記は現実に片仮名としての効果を持つ。
 外来語、擬態語、生物名などの片仮名で書くことが指導された語が片仮名で書か れることより、通常平仮名や漢字で書かれることが多い語が片仮名で書かれること の意味や効果は問われていい。

 内容が問題となった「てんかん」も「テンカン」と片仮名表記であった。  なぜ「テンカン」を「てんかん」にしたかという問いに対し、「刺激的なイメー ジを与えたくなかった」「片仮名は何か特別の意味を持っているかのような印象を 与えるから」と角川書店は説明する。
 が、作者が「テンカン」と片仮名にしたのは、そういう意味があったのかもしれ ないし、実際「テンカン」と書かれたことでそういう印象を受けるのなら、その印 象も作品享受の一つである。
 それをそう読まれないように変えることは、作為である。原作の持つ読みを操作 したことになる。
 それは正しいのだろうか。正しいとするのが教科書会社や文部省の判断である。

「学習指導上の配慮」という客き換えの根拠
 原作尊重より書き換えを選んだ根拠は、「学習指導上の配慮」と言われる。「テ ンカン」と片仮名で書くことによって刺激することをしたくないという思惑である。 そのことは、検定基準の「生徒がその意味を理解するのに困難であったり、誤解し たりするおそれのある表現はないこと」が作品の真の姿より優先されたということ である。

「表記」に対する認識の誤り
 漢字で書くか平仮名で書くか、又は片仮名で書くかということは、一部の語に関 しては決められているが、ほとんどの表現は、一義的に決められてはいない。
 漢字で書ける語を平仮名で書くことは、表記上差し支えない。そうである以上学 習上もそうであるはずなのだが、学習した漢字を平仮名や片仮名で書くと、漢字で 書くように指導されることはよくある。
 漢字の書き取りといった漢字の習得を評価する目的においては、それは適切な指 導であるが、作文等、文章を書くという作業においては、誤りではない限り表記の 選択は自由であり、自由であるべきで、そこに漢字学習の成果を見ようとすること は考えが間違っている。
 だが、それと同様のことを、教材とする作品にも行っているわけで、学習した漢 字は漢字に直すという添削指導がそこに展開されている。
「学習した漢字が書けるごと」と「漢字で書くか仮名で書くかの選択」は全く別 の次元のことで、それを一方的に同一視してしまっていることの判断の誤りが一 つと、人の「作品」をそんな誤った判断のもとに容易に改変してもいいかという 問題がある。

作者の表記は作品の一部ではないのか
 「原作尊重」は表記に及ばないかと言うと、その判断もまた分かれるところだが、 とりあえず教科書会社や文部省の扱いは、表記を「原作」の一部として尊重してい ないようだ
 表記は作品ではないのか−。
 その判断がもっと明確に表れた例が、片仮名を平仮名に直した判断である。
 「無人警察」では、ゴミ箱、紙クズ、ウソ発見器、テンカン、ワイセツ、ゾッとし た、ホッとした、バカな、ニヤニヤ、の九件が、片仮名である必要性が認められない と編集段階で判断され、平仮名に書き換えられた。
 果たして片仮名で表記することが、書く際においても、読み進める上でも意味がな かっただろうか。
 そうだとしたら、作家は意味もなく片仮名で書いたことになる。そう判断するのは、 プロの作家に対して失礼ではないだろうか。

「テンカン」を消すための策略
 もちろん違いや意味が全くないとは言わない。だが、意味があったとは、教科書会 社や筒井氏は言えない。
 確かに「ゴミ箱」や「紙クズ」の片仮名に大した意味はないのかもしれない。それ は作家の書き癖や偶然の選択であって、本人もこだわっていないものかもしれない。
 しかし、「テンカン」に関しても同様だとは言い切れない。そのすべてが同様の理 由から片仮名になったわけではないからである。

 九つそれぞれに片仮名になる理由や経緯があったはずなのに、全部まとめて平仮名 にすることにしたのは、「テンカン」がその中にあったためと思う。
 逆に言えば、「ゴミ箱」や「紙クズ」は片仮名に残しておいても大した意味はない から(私は、片仮名にした意味があると思っている。「ゴミ」「クズ」という片仮名 書きは、彼の中にあるマイナス感情が働いたもので、「ウソ発見器」の「ウソ」とい う片仮名表記は、作者の持ついかがわしさが出ていると思う。細かく言えばそういう ちょっとしたところに作者の微妙な思いや判断をかぎとることができ、それが作品の 鑑賞に影響を与えると思うが、そこまでをこの教材が意図していなければ、「学習指 導上の配慮」として理解できる。)残しておいてもかまわないが、「テンカン」を残 しておくことはまずく、「テンカン」の処理に、他のものも利用されたのである。そ して「テンカン」という片仮名書きを、「ゴミ箱」や「紙クズ」と同様、意味のない 片仮名語として位置づけようとした。
 病名を片仮名書きにすることは通常なく、「癲癇」という漢字が難しいのなら、ル ビをふるか平仮名にするのが通常なのに、片仮名にしたことは、「ゴミ箱」以上の意 味があって当然だ。
 本人も「断筆宣言」の中で、「日本てんかん協会」という平仮名書きの固有名詞を わざわざ「日本癲癇協会」と漢字で書いているところから、「無人警察」も漢字の配 慮から片仮名にしたとは思えない。「覚書」中のてんかんに対する告白から、あえて 片仮名を選び採ったのだと私は解釈するし、「無人警察」に片仮名書きで書いてある ことは、彼にとって意味のあることであったと思う。教科書掲載において平仮名書き を承諾したのは、他の語と同様大して意味がないからではなく、「テンカン」が大し た意味を持っていることを勘ぐられないための対策であったと思う。
 平仮名書きによって「テンカン」の片仮名書きが持つ刺激性はなくなったが、文章 の書き変えによって、作品におけるてんかんの意味合いが変わった(それが目的で あった)ということを作者は気づいているであろうか。だったら、「覚書」の中の発 言も気をつけたらよかったのにと思う。

教材としての小説の役割
 作品はこうして検定に合格すべく書き換えられていく。それは「学習指導上の配慮」 という大義名分による操作で、作品は教材となっていく。
 教材は原作とは別物で、必ずしも原作の真の姿を伝え同じ理解をしなくてもいいも のだということを知っておく必要がある。
 だったら、検定基準の「原作を尊重していること」とは、どういう意味なのだろうか。
 原作を尊重しながらあれだけの検定基準を満たすことは不可能に近い。そのことが逆 に、書き換えを許可し、当然のことのように書き換えが行われる現状を作っている。

 小説の表記をそんなに書き換えることが、なぜ問題視されないか。正しい方向、望 ましい方向に向かうのならば、かまわないのか。
 「改善は最小限に」と言い、「原作を尊重していること」を第一としながらも、こ うして書き換えられた表記について認定しているということは、原作尊重よりも学習 指導上の配慮の方に重きが置かれているということである。
 こうした表記の改変が学習指導上の配慮に該当するかどうか自体、論議されている  のだろうか
 書ける漢字を漢字で書くことが国語における学習内容の一つであることが、教材に 漢字を多く用いる理由となることはおかしい。
 これでは教科書の小説は、表記の模範文のようだ。小説を学習する目的が表記でな いことは明白だが、小説で表記をも学習させようとすることが、この書き換えを奨励 していると言えよう。

 国語で扱う小説は、小説としての作品を味わうことだけが目的ではないというのが 文部省以下の判断であり、小説において漢字や言葉遣い、重要語句を覚えることも学 習目的となっている。極端に言えば、ある漢字を覚えさせるために作品を選んだり作 品中の平仮名を漢字に直すことは当然のこととしてしてよいことになっている。なぜ ならそれは教材だから。教えるための材料なので、教えるためにはどう扱ってもいい のだ。
 小説が作品として正確に伝わることよりも、何かを学ぶための素材に徹することが 要求される。作者の思いが生かされることより、漢字や言葉の便い方を間違いなく覚 え、誤解や不快な印象を与えないことが、文部省が言うところの「学習指導上の配慮」 である。

なぜ書き換えたものに問題がないか
 教科書の小説が原作と異なることに、文学者や文学ファンは不満であろう。
 「無人警察」が掲載されるに当たって、百十か所の書き換えがあったと知ると、こ ぞってけしからんの声を上げる。「そんなに原作を損なうことは許せない」という非 難である。そして、そう改変した出版社を「ひどいことをする」となじり、「そんな ことなら筒井氏は教科書なんかには載せないと怒ればいいのに」と怒りを示す。
 ところがもちろん、これは筒井氏の承諾があってやっていることである。
 文章の書き変えについても、教科書会社は作者の承諾を得て改変し、文部省は作 者の了解が取れていると判断した上で問題無しとして扱っている。教材の原文は、教 科書会社が勝手に改変したものではなく、作者が許可したのだから、そのことに問題 は無いと言っているのである。
 作者が許可したのなら、それはオリジナルと同じであり、他人がとやかく言うこと ではない。作者が認めたものが学習上の目的と非常に合致した結果を示しているとい う、非常に好都合な話になるのだ。
 つまりここでは、教材の作品が原作とは異なる、原作を損なっているという批判は 成り立たない。原作云々を持ち出すのは筋違いなのである。教材の形もまた作者の作 品であるのだから。そして、原作とは別の作品と扱うべきなのだ。
 教材となった「無人警察」は、原作とは別個に主題の読み取りや作品鑑賞が行われ、 表記や改変された部分に関しても、その結果を作品の対象としていい。と言うより、 すべきなのだ。それが原作と異なっても、作者が認めている以上、作者の表記や作品 と考えて、その教材を前提に、読解鑑賞その他の学習が行われる。
 その他の学習とは、何でもいい。漢字の練習に使ってもいいし、てんかん記述に関す る討論でもいい。作品は材料であって、使い方は教師に任されているからである。

 その使い方が不本意である、自分の作品の意図と異なるといった文句を作者は言え ない。なぜなら、材料として使うことを許可したのだから。教材とはそういうものだ と知っていて許可したはずなのだ。それを含めて、作者の了承が取れていると言う。

教材の扱い方は教師次第
 例えば、授業でこの作品をてんかん差別を書いた作品として扱うかもしれない。こ れをきっかけにてんかんに対してどんな印象を持っているかといったことが教室で話 し合われるかもしれない。
 それは避けられないことである。てんかんに対しては、十分な理解がなされるよう 角川書店は指導書で十分対応する姿勢を見せたが、指導書の内容は角川書店が希望す るものにすぎず、それを読まない、あるいは理解しないことはあり得、熟読してもそ れに従うかどうかは教師の判断による。
 指導書は強制力が無く、現実にどう扱われ指導されたかということは、文部省が チェックするわけではない。教科書の使われ方は文部省や出版社の管轄外であり、 どういう形で授業が行われ、生徒に受け止められていくかはわからない
 高校教師たちに聞いても「「無人警察」って差別語問題で引っかかった作品でしょ」 という印象であり、現に「てんかんに対する差別が書かれている作品」ととらえてい る人がかなりいた。「差別表現の問題として扱うつもり」と断筆宣言等のからみで、 一つの時勢的な話題として積極的に取り上げていこうという試みもある。人々の関心 は断筆宣言をした筒井氏の方にあり、それは生徒の質問としても絶対出てくるはずで、 今となっては「無人警察」の学習には切り離せない。
 が、この経緯に関して正しく知っている者は現実に少なく、生徒のみならず教師 にさえも断筆宣言 −差別語− てんかん差別という図式でてんかんに対する差別 問題として語られることは否めないだろう。
 「この作品にてんかん差別はない」と言えばてんかん関係者にとって、それが差 別している証拠であると不本意にとらえられるであろうし、「てんかん差別がある 」と言い切ったら、そんなものを教科書に載せていることが問題になる。
 つまり、てんかんについて何かを発言することが次に何を生み出すか知れず、そ の十分な責任が取れるかどうかは非常にあやしい。
 でも、いったん作者や出版社の手を離れた作品は一人歩きし、教え方をチェック する機構が無いことは、制度としてそれを認めていることになるから、出版社や文 部省はどうすることもできない。
 一度検定に合格した教科書の使われ方は、現場に一任されているのだ。

表記の書き換えにおける問題
 こういうシステムである以上、教科書の内容自体が非常に考え尽くされ、誤解や 悪用される可能性がないことが望まれる。その点で「無人警察」は内容的にも表記 面でも十分であったとは言えない。
 表記に関しては、漢字学習の面では確かに学習漢字を平仮名で放っておくよりは、 漢字でどう書くかを見せることの方が学習効果は高く、それも教材の目的の一つと 言われれば、そうすることが妥当かとは思う。が、完璧にそれがなされているので はないことは問われないのか
 例えば、「とりつけ」などを「取り付け」に直している一方で、「見ける」 「り入れる」などはそのままだし、「とくに」「たいてい」「はじめて」 といった副詞を「特に」「大抵」「初めて」と漢字にしながらも、「だいいち」「 まったく」「いったい」を平仮名書きのまま残している。
 「失礼をいたしましたか」を「失礼を致しましたか」とするのは、補助動詞的使 い方の場合は仮名書きにするという用例に反し、また他の補助動詞や形式名詞が漢 字になったり、実動詞や実名詞であるのに平仮名になったり、あるいは補助動詞や 形式名詞が漢字、実動詞や実名詞が平仮名のままといったふうに混同している。
 これはおそらく、実動詞と補助動詞、実名詞と形容名詞の表記上の書き分けを作 者は当然のことながら教科書会社もわかっていないことによるいいかげんな処理で あり、こういうことによって表記の書き換えも中途半端に終わり、しかも正しい方 向、望ましい方向に向かうならともかく、原作は正しいのに間違った方向へ手を入 れる結果となることはヾ読者や生徒にとっても、作者にとっても迷惑である。

表記の統一がもたらす問題点
 表記の統一をどうせするのであれば完璧にすればいいし、できないのなら作者の 表記をそのまま見せて、どう書けるか、どう書いたら適切かといったことを考える のも教材としての生かし方であろう。
 それによって作者の表記の特徴を知ったり、表記にはいろいろな考えやパターン があり、どれを選ぶかでふんいきや印象が変わるということを体得し、たかが表記 といえど、選択することの難しさとおもしろさを知り、興味を持って自分が書く際 にも注意を払うようになるかもしれない。
 すべてを整えて、表記の模範文のようにして見せることは、筒井康隆の作品は、 小説というものは、すべてこういうふうに規範に則って書かれているものであると いった誤った認識を与えたり、逆に書くということは、これだけのレベルが要求さ れると思い、教科書を直して表記が統一されていることによって、表記はこのよう に決められているのだと思ってしまう過ちを生んでしまいかねない。
 世間が本当にそうであるならそれも正しいことになるが、実際に表記はばらばら であり、何種類も存在し、あながち誤りとは言えないことが多い。そして、プロの 作家もそれで通っているのであり、そういう表記で書かれた作品と接することの方 が日常的に多いという現実は、表記を一義的なものとする判断を否定している。
 表記は一義的に決まっているのか、ある程度自由なのか。私たちはそれに従わな ければならないのか、従わなくてもかまわないのかということが決まってないのに、 教科書が一つの方針を示してしまうことによって、それが決められ、従わなくては ならないのだという印象が与えられはしないか
 この方針は教科書会社の編集方針であって、教育の方針や表記の方針ではないと は、誰も思わない。
 教科書の結果は、そのくらい影響力のあるものであるから、その判断の責任は 「単なる編集上の方針」ではすまないくらい重い。

表記の書き換えは何を基準としているのか
 常用漢字以外あるいは未習漢字を使う場合は、読めないことから、ルビをふるか 平仮名に直すことを配慮としている。それに従い、「防塵」「身体」「奴」「体躯」 「冒涜」はルビがふられ、「無駄」「僕」は平仮名になったが、表外字である前者 の漢字がそのまま登場し、表外音訓ではあるが、常用漢字である後者を平仮名とし た判断の基準がわからない。
 同じ「無駄」であっても、角川教科書に同時掲載の開高健の「ムダこそ自分を豊 鏡にする」は片仮名である。この片仮名には片仮名であることの意味があり、筒井 氏の作品の片仮名には無いという判断は、客観的なものだろうか。
 しかも、原作で平仮名書きになっている「ぼうぜん」は、「呆然」と表外字を 使ってまで漢字書きになっている。さらに、「防塵」「冒涜」「呆然」はルビをつ けた漢字書きで「重要語句」として別記されている。この記載のされ方から、 「防塵」や「冒涜」「呆然」は、平仮名より漢字で書くことが望ましいという判断 を生徒が持たないか。
 原作の「ぼうぜん」を「呆然」にした理由は、「漢字で書く方がわかりやすい から」という説明だったが、それは編集者の一つの意見にすぎないし、仮に「わか りやすい」としても、その理由で書き換えが行われることは適切なのであろうかと 疑問が残る。
 わかりやすくするために手を入れていては、作品によっては修正だらけになって しまう。
 わかりにくいがおもしろいとか、重要である、価値があるといった作品は存在し、 その作品においてわかりにくいということも一つの特徴や読みの経験として扱われ ていいはずだ。
 「無人警察」においても、「ぼうぜん」という平仮名書きがわかりにくくて書き 換えを要す以前に、わかりにくいことやおかしいことはいっぱいある。(V章の 「異端読解法」参照。)
 だが、それも含めて作品である。わかりやすかろうと、わかりにくかろうと、 書かれているがままを作者の最終結論として評価検討することの方が、実施勉強に なるのではないだろうか。

為されるべきでない「学習指導上の配慮」はないか
 検定基準の表記の項目に、「表記は適切であって不統一はなく、別表に掲げる 表記の基準によっていること」とあることから、作者の表記をそのまま見せるこ とはできない。
 なぜ不統一ではいけないのか。
 いろいろな人の文章が載っているのだから統一されていないことがむしろ当た り前ではないか。
 不統一でも各々が正しい場合があり、多種類の可能性を見せることも、高校生 なら学習の妨げとなるとは思えない。
 誤りでないのなら、何も直したり、まして統一という観点から一つにそろえる といったことは、規制すべきことのようには思えない
 表記の改変は、わかりやすい模範文を示すことにとらわれすぎていて、それは 文庫本や全集や雑誌も読む高校生に対して、少し過保護すぎやしないかという気 がする。
 教科書において配慮としてそういうことを施すことが、将来的にどんな効果が あるのだろうか
 こんなに修正された教材を与えられ勉強したことは、ちっとも小説や文学を知 ることにはならない。なのに小説を学んだ、筒井康隆の作品を読んだ、わかった と思うことは危険ではないだろうか。
 教材が作り出す世界の特殊性や作為性を教師や生徒が知らなければ、文学や表 記というものを勘違いしてしまうかもしれない。
 「学習指導上の配慮」とは一体何なのか。
 「学習指導上の配慮」として本当に為されるべきことが為され、同時に為される べきでないことが為されてはいないかということに、文部省や出版社だけでなく、 教師や読者や文学者や研究者たちがかかわっていかなければならないのではないか

表記は重要なのか重要でないのか
 なぜこんな改変が常識になっているかというと、作者が許可するからである。
 教科書会社としては、教材とする作品が問題を多く含まないことを希望する。 平仮名が多すぎる、送り仮名が不適当だ、漢字の使い方が正しくないといった表 記のレベルでも、なるべく問題を含んでいないにこしたことはない。
 採り上げたい作品の表記が高校生の学習指導要領に準じていることは、まず無い。 だが、表記の観点から教材を選ぶわけにもいかず、内容面から採り上げたい作品は 表記に問題があるかもしれない。
 でも、作者の了承があれば作品は表記に限らず直していいことになっており、 理想の形に持っていくことができる。
 そうやって、結果的に教科書の表記は編集者の方針によって、選択、統一、 規定されることになる。その最終結果が、学習指導要領に照らして問題が無けれ ば、検定は通る。その改訂過程や原作との差異は、表記に関してはほとんど問わ れないようだ。その理由は、作者の承諾が取れているのであるから。
 内容に関してが問題となるのは、不適切であるという教科書会社や検定意見に 対して作者が不満を示したり、書き変えに同意しないことがあるためである。
 内容に関しては、自分を主張して相手の意のままにならない作者も、表記に 関しては比較的素直に了承してしまうというのは、表記をあまり重要視していな いせいかもしれない。
 表記が重要だからこれほどまで徹底的に書き換えるのか、重要ではないから 抵抗なく書き換えてしまうのか。
 おそらく表記は学習上は重要だが、作品としてはあまり重要ではないと考え ているのではないだろうか。
 作家とは、言葉や文字を一字一句厳選して書くのではないかと想像するが、 そういう作家はこういった表記の一方的な書き換え要求に応じないだろう。  書き換えに応じたということで、その表記にこだわっていない、表記という ことそのものにこだわりを持たないと解釈するしかない。
 ところが、本当に作者が納得しているかどうかは別問題のようである。  文部省の見方によれば、教科書掲載を認めたことをもって、本文の改変を了 承していると判断するのであるが、その受諾過程に、一つ一つに対する確認が あったかどうかは疑わしい。
 作者は百十か所も手を入れられたら、それは自分の作品じゃなくなるという 気はしなかったのだろうか。こういう教科書の作り方に疑問を感じなかったの かと思うと不思議である。作家によっては、教科書に掲載することを認めたの であって、改変作品を自分の作品として認めたわけではないと言う人もあろう。  教材作品は教材であって文学作品とは別物だということが、生徒にもわかれば いいのだが、実際は同一視され、むしろ教材作品だけを読む生徒の方が多いだ ろうから、「あれは教材だから」といった言い訳が通用するか疑問である。

 異本が生じるごとく、近現代文学にも複数の同一作品が存在する。
 特に表記に関しては、出版元や出版目的が異なると、その編集者によって表 記は直される。
 「無人警察」に関しても、どれを「原作」と呼ぶかと言うと、今回は教科 書が基にした新潮社の筒井康隆全集をこの場合の「原作」と呼んできたが、 「無人警察」の初出は「科学朝目」という雑誌である。
 全集の表記と「科学朝日」の表記は異なり、どれをオリジナルと言うかと 言うと、「科学朝日」ですら雑誌掲載ということで編集者の手が加わってお り、筒井氏が書いた原稿とはかなり違うはずだ。よほど原稿に忠実であること を特別に目的として心がけなければ、作者が書いたとおりの表記で出版され ることはこの出版界においてはまずなく、それぞれの表記は、むしろその出 版社やシリーズの表記であると言った方がいいかもしれない。

表記は主張しなくていいのか
 全集とこんなに違うと驚いたところで、全集自体がすでに作者の表記とは 限らないとしたら、表記にこだわることはないのかもしれない。
 仮に筒井氏の原稿と比べたところで、筒井氏が表記にこだわりや関心を払 って意図的に選んだものでなければ、表記の差異を論じることにあまり意味 はない。
 だったら表記はどうでもいいのか。
 一般の人でも意外につまらないこだわりを見せるものであることからする と、ことに書くことを仕事にしている人は表記をないがしろにしていないは ずだ。かなりこだわって漢字や文字遣いなどを工夫していると思ってよい。
 なのにそれが出版というシステムに乗ると、出版界の方針や読者の事情 によってかなり頭ごなしの規制がなされるということだ。出版してもらうに はある程度従わなければならないという卑屈さが、作者の表記を換え、表記 の主張を無くさせる。
 作者がこだわって書いたのなら、その表記で発表することが試みられるべ きで、その主張は本来してもいいはずだ。誰かがそうやって主張していかな ければ、いつの間にか表記は周りから規制され、それに反することなど許さ れない事態になっているかもしれない。それはちょっと、身の周りの新しい システムに疑問を持たないでいたら、ロボットに頭の中まで支配されていた という「無人警察」の状況に似ていないか。
 誰がそのとき炭坑のカナリアとして声を出していくかと言ったら、それは 作家や文学者といった書くことで自己主張をしている人たちであってほしい。 その人たちが、嫌だと抵抗するか、あきらめて言うなりになるかによって、 表記の今後は左右される。

作品は書いてある結果で判断される
 一度認めて世間に出たら、それは本人の意志でそう書き、その表記が本人 の主張であると受け取られても仕方がない。それが不本意な承諾はしないこ とである。
 作家が表記の書き換えを容易に許してきた歴史が、「学習指導上の配慮」 と称すれば何でも手を入れていいかのような錯覚を生み出してきたと思う。
 原作者がきちんと拒否しなければ、作品は守れない。教材は材料だなん て、どうしてがまんしているのだろうか。

 作品は結果で評価される。どういうつもりで書いたか、何を言いたかった かではなく、どう書かれているか、何が読み取れるか。
 作家はのこのこ作品の説明をしたり、いちいち読者の反応を確かめたりは できない。書いてあるものだけで勝負をするのであり、それに対する言い訳 ができると思ってはいけない。死んでも心残りのない形で責任を持って自分 の作品を示すべきである。
 作者が不本意な作品を私たちは読みたくない。不本意な形の作品が残るこ とを拒否する勇気と、主張する自信を作家の人に見せてもらいたい。

作品を守るのは作家自身だ
 百十か所の表記の書き換えとてんかん部分の文章の書き変え、それは筒 井氏が了承したものと角川書店も文部省も思っているが、筒井氏は九十四 年九月二十七日のてんかん協会への書簡の中で「教科書の場合、本来は著 作権法によって掲載は作者への通知のみでよい(それを著作者が拒否でき ない)ことになっている」「そもそも教科書は著作権のありかたが一般の 書物とは異なっています」と説明しているところからみると、筒井氏に とっては、「変えられて、載せられてしまった」という意識なのかもしれ ない。
 だとしたら、「無人警察」の教科書掲載を機にてんかん協会から抗議を 受けたことは筒井氏にとって迷惑でしかなくて、取り下げることで「一刻 も早く終結させてしまいたい」と思ったのは、わかる気がする。
 (もちろん、著作者が掲載を拒否することもできるし、角川書店は通知 のみならず筒井氏から掲載許可のサインをもらっている。)

 だが、いったん掲載されたら、「そういうつもりじゃなかった」という 言い訳は通らない。
 教科書の「無人警察」も筒井氏の作品であり、その作品の責任は筒井氏 にある。それを覚悟しての掲載許可であるべきだ。
 著作権は自分で作品を守るためにある。教科書とて著作権は変わらない。 納得できなければ断ればいいのだ。
 筒井氏は、断筆したのは過去の作品を守るためでもあると言っている。  書き直しは強制ではない。応じなければいいのだ。
 自分が実際に筆を持たずとも、「こうしてよろしいですね」ということ にうなずいたら、作品は書き直されてしまうのだ。過去の作品を守るのは、 筆を持つ持たないではなく、自分が意識を持つか迂闊に見過ごしてしまう かによる。
 表記の書き換えを慣例として軽く受諾してしまう安易さが、自分の作品 を損なう第一歩となる。
 作品を大事に思ったら、表記とて譲らない頑固さを持つことが必要かも しれない。

差別を書いてはいけないのか
 「無人警察」は確かにてんかんに対する差別があり、誤解や偏見を助 長するおそれがあると思う。
 だが、そのことはいけないのだろうか。
 正しくこの作品を読み(てんかんに対する差別はないという意味ではな い)、てんかんに対する作者の差別がこの作品にどういう形で表れ、その ことに気づいていない作者や読者はどう書いたと思い、読んでしまうかを 実体験することによって、その行為はとりもなおさず無意識な差別のなせ る技ではないかと反省し、差別の本質や見えない危険性に気づくことがで きれば、てんかんに対する差別を書いたことがマイナスにはならない。

 差別や差別表現の問題はタブーではなく、もっと話し合われるべき課題 で、それを避けて通るのではなく、取り出してきて見せるのが、作家の立 場であると思う。そのためには作家生命を懸けてタブーに挑戦したり、抑 圧だけをしようとするものと闘う姿勢は評価されるべきであり、決して否 定されるべき行為ではないと思う。
 差別の話題自体が禁句であるといった今のままでは、差別の問題を一体 どこで語ればいいのだろうか。
 このまま自主規制が進めば、差別語は便われなくなるかもしれないが、 差別ということを考えたり話し合ったりすることがないことから、差別が どんどんわからなくなっていく。それでも差別は確実に存在し、人々を傷 つける。

 差別語がどんどん多くなっていくという現象は、規制が厳しくなったの ではなく、何かにつけ人々が差別を無遠慮に見せ出したからで1はないか。 意識せず差別を表してしまっているということだ。
 例えば、「太っている」「やせている」といったことも、「太っている 人は暑っ苦しくて嫌い」といった本来日にすべきではないことを平気で誰 にでも向かって言い放ち、笑いの材料とする神経が、近々「太っている」 という表現を差別語にしてしまうかもしれない。
 プラスの評価の言葉であっても、「美人はお高くとまっていて嫌いだ」 と言うことによって、美人を差別していることになる。
 NHKの調査で、七十歳を過ぎた女性でも他人から「おばあさん」と呼ば れることに異常な不愉快さを示す人が多いことを取り上げていたが、それ は、「おばあさん」という言葉に原因があるのではなく、老人そのものに 蔑視があると感じたからに違いない。
 中年女性を「オバタリアン」と呼ぶ言葉ができて、中年女性であること が差別の対象になり、「おばさん」という言い方を差別的に使う人がいる ので、「おばさん」は立派な差別語になっている。
 言葉を差別語にするかどうかは、使う人の心次第だ。その点で、差別語 が増えているということは、実際の差別が増えていると感じてよいのでは ないか。

自分たちの中にある差別意識を発見し、他人と意見を交換することは必 要で、その刺激剤として、差別を書いたり、差別を扱った作品が存在す ることは、あってよいと思う。
それは何も、差別をしてはならないという正義論としてではなく、単に 差別を書く、あるいは今回のように本人が気づかない悪意の差別が仮に 存在するとしてもである。差別が当たり前の話題として浮上してくるこ とが必要なのだ。
 それが近視眼的に問題視されるのは、受け取る側にそれを受け止める だけのカがないからに他ならない。
 誤解されるとまずいから禁止という判断は、いかに自分たちが信頼され ていないかを示す。

差別を書けない理由
 今回も話題になった「てんかんと運転免許との関係」も、認められてい る国(アメリカやイギリス、デンマーク、スウェーデン等)があるのに、 日本では運転免許の絶対欠格事由となっている。
 少しでも危なそうなものは禁止する国と、それほど危なくなければ認め ようとする国。「危なそう」と判断することが、すでに差別の発想である。 てんかんでも発作が無く、運転が危険と考えられない人に対して危ないと 思う。根拠の無い判断は差別である。
 何かをもってあなたはみんなと違うと区別したがるか、そのくらいのこ とはみんなと同じと考えるか、お国柄の違いだろうか。
 運転免許がもらえないことで、実際はそんなことはないのに、病気その ものが危なそうという印象を逆に与えてしまったりする。
 てんかん協会が、症状によって運転免許を認めるよう制度の改善を求め るのは、決して筒井氏が邪推するような、「てんかんを持つ人にも運転を させようという運動」(「覚書」)ではなく、現実を変えることによって 差別を無くす具体的行動なのだ。
 しかし、このようなSF作品の話ですら、多くの人がてんかん者の運転は 禁じられているというふうに現時点の立場で読み取ってしまう(免許の有 無については書いて無いから、運転は許されていると取る人があってもい いはず)ほどで、現実に運転免許を取得することは、国の制度に対して だけでなく、国民の感情に対しても前途多難という気がする。
 今の日本では、てんかんを書いた「無人警察」を害があるとして訴えて、 目の前から消してしまうことによってしかてんかん関係者を守れないほど、 現状は低レベルである。頭のハエを追うだけで、ハエの駆除を言っても聞 き入れる素地のない、情けない自分たちの問題意識であると思う。
 
 
 

(B)てんかん部分の改変
 
 
 一番大きな改変箇所は、てんかんに関する部分で、「てんかんという 病気に対する誤りや不十分な認識に基づく記述がある」という検定意見 によって、「私にはテンカンの素質はないはずだし」が「わたしはてん かんではないはずだし」に書き変えられた。
 前半の「てんかんを起こすおそれのある者が運転していると危険だか ら、脳波測定機で運転者の脳波を検査する。異常波を出している者は、 発作を起こす前に病院へ収容されるのである。」の部分はそのままで、 てんかんの説明として「発作のとき、身体の痙攣、意識喪失などの症状 が現れる病気。現在では、薬の常用で抑えることができる。」という脚 注を付けることで対応した。
 この対応で十分であったかを検証していく。

 文部省が指摘した「てんかんという病気に対する誤りや不十分な認識」 の具体的内容は、その合格になった対処方から逆に推測すると、てんか んは素質でなる病気ではないということと、てんかんに対する説明が不 十分ということだろう。

 前半部の脚注の検討

てんかんの説明がない本文
 本文ではてんかんは、いきなり「てんかんを起こすおそれのある者が 運転していると危険だから」とてんかんを取り締まる理由が述べられ、 てんかんが何たるかの説明がない。てんかんという言葉を知らなければ、 てんかんが病気だということもわからないかもしれない。  とりあえず脚注は、病気であることを告げる。

脚注はてんかんの発作イメージを固定
 「てんかんを起こす」というのは、「てんかんの人が発作を起こす」 という意味だが、「ぜんそくの発作」のことを「ぜんそく」と言うのと 同じく、「ぜんそくを起こす」「てんかんを起こす」というのは、発 作の症状のイメージを伴う。
 「てんかんを起こす」という言葉から、一般にある特定のイメージが 想起される。それは、「急にけいれんを起こして意識がなくなる」(三 省堂「国語辞典」)状態で、そうなったら運転が危険なのは納得がいく が、それだけにてんかんをそういう発作のイメージと結びつけて語り危 険視する記述は、てんかんの発作が薬で抑制できる今日の医学を正しく 伝え得ないということだろう。
 だが、作品にそれらを書き込むことはせず、脚注で、症状の説明と現 在では薬の常用で抑えることができることを補足した。
 しかしその説明文では、「発作のとき、身体の痙攣、意識喪失などの 症状が現れる病気。」とあり、一般に想起されるイメージを変えるもの ではない。
 てんかん発作の形態は極めて多様であるにもかかわらず、特定のイメ ージがあり、そのイメージで「無人警察」は書かれていることが問題な のに、教科書の注記はそのイメージを払拭することに一役買うのではな く、植え付けることになっている。

現在の医学情報は必要か
 注記で「現在では、薬の常用で抑えることができる」と付け加えられ ても、それがこの小説の理解にどうかかわるのか。
 この未来の小説において発作が抑制されているのであれば、発作を起 こさない人を見付ける設定自体が成り立たないはずだし、その医学的事 実にもかかわらず「てんかんを起こすおそれのある者が運転していると 危険だ」と取り締まる設定と読めば、発作を起こさないてんかん患者を 「てんかんを起こすおそれがある」と思っていることになり、よりてん かんに対する差別を深める結果となる。
 脚注のこの一文は、「無人警察」が過去に書かれたことを弁明するも のであるが、現在の医学的知識は過去に書かれた未来小説の読みに影響 を与えないし、与えたら混乱を招くだけだ。
 脚注があっても、現代医学とは別にこの作品の中では、てんかんは発 作を起こす存在として読んでいかなければならないことに変わりはない。

必要な説明は何か
 ここでてんかんの説明をしたいのなら、まず、てんかんがどういう病 気であるのかを言わなければならない。
 てんかんは昔から精神の病気と誤解されてきた。実際には、てんかん は脳の器質的な病気である。そのことの誤解を一番に解かなくてはなら ない。なぜなら、筒井氏自身もてんかんの脳波と思考波を混同して考え ているところから、読者もまたてんかんを思考や精神の乱れとして理解 してしまう可能性があるからだ。
 教科書の注記では、てんかんはどこがどうなる病気かわからない。そ れ無くしていきなり発作時の症状の説明で、「身体の痙攣、意識喪失な どの症状が現れる病気」とするのもおかしな話である。脳に何らかの原 因で傷が出来、それが発作を招くのであって、その症状の説明は必要な いかもしれない。
 発作を伴うことが言われていれば十分であり、瞬間的なピクツキ、奇 妙な動作、手がしびれる、幻覚など様々ある症状の中から、身体痙攣や 意識喪失だけを記載するのは、避けたい偏見をより増すことに貢献す ることにならないか。
 この国語の教科書でてんかんの正しい知識を覚える必要はないのだか ら、てんかんに関しては誤解を招かない配慮がなされていればいい。つ まり、「脳に傷がある慢性疾患で、発作を起こすことがある。現在では 薬で発作を抑制できるし、治癒も可能である。誰にでも起こりうる病気 で、体質や遺伝との関係は認められていない。」ということが言えてい れば、作品は現実とは異なる設定で書かれていることがわかり、作品と しての読みを進めることに問題はない。それができれば、後半だって、 主人公の理解の内容として「てんかんの素質はないはずだし」のままで かまわない。

てんかん部分はどう読めばいいのか
 作品の「てんかん」を医学上のてんかんと全く同じに理解する必要は なく、極端な話、「てんかん」が何であるかわからなくても読解に支障 はない。この作品の中で、てんかんがどう読み取られようと、それを現 実の問題にすることはないのである。
 つまり「てんかん」は、たまたま実存する病名と同じだが、別の病名 でもよく(病名でなくてもよい)、仮に「筒井病」としてみる。
 「筒井病を起こすおそれのある者が運転していると危険だから、脳波 測定機で運転者の脳波を検査する。異常波を出している者は、発作を起 こす前に病院へ収容されるのである。」「わたしは筒井病ではないはずだ し……」となり、ストーリー上は差し支えない。
 ただ、聞き慣れない「筒井病」が突然発病し、その対策が述べられる ことに瞬間的な違和感を覚えるかもしれないが、筒井病が何で、どうい う症状を示すものであるかは関係がないことに気づく。つまり「筒井病」 は、「筒井病を起こすおそれのある者が運転していると危険だから、脳 波測定機で運転者の脳波を検査するシステムになっていて、異常波を出 している者は、発作を起こす前に病院へ収容される」とだけ読めばいい。 文脈上同じことが「てんかん」にも言えるはずだ。

てんかんを利用した危険性
 ところが「てんかん」が現実に存在する病気で、一定のイメージがあ る言葉であるがために、単なる作品中の病名以上の意味を持ってしまう。
 その効果を作者は利用している節があり、作者はここで「てんかん」 という言葉を持ち出すことによって、例えば「筒井病」であったら唐突 に見えるいきなり取り締まりの理由を示す文章を、抵抗なく納得させて いる。これ以下の一連の内容は、読者が「てんかんを起こすおそれのあ る者が運転していると危険だ」ということに疑問を抱かず、全面納得す ることで成り立っている。
 つまり、筒井病であれば、なぜ筒井病が交通違反の対象となるのかそ の説明が本来必要になるところが、「てんかん」という具体的イメージ を持つ言葉によって省略できてしまっている。その説明がないにもかか わらず、その扱いに納得してしまうのは、「てんかんだったらこうされ て当たり前」と思うからなのだ。
 作者と読者がそういうイメージと意識に支えられて、書き、読み進め ていくことが、てんかんに対する差別でなくて何だろう。
 (もし、この病名が「筒井病」だったら、「筒井」さんは気を悪くす るかもしれないし、「筒井」君がいじめにあうかもしれない。つまり、 この部分は、特定の人にいわれのない不愉快さを感じさせる書き方では あるのだ。)

てんかんに対する指導方針の誤り
 本文は、実際にてんかんに対する差別意識があるから成立している文 章で、もしここで、てんかんの発作は薬で抑えられ、発作を起こすとは 限らないし、運転することは必ずしも発作と結びつかないという知識に 基づいたら、この文章は意味を成さなくなる。その点で、結局この文章 を読み取るには、てんかんに対して作者が期待する感情を持って読むこ とが望まれ、むしろこう読まれることの妨げとなる指導をすることの方 が、読解の指導としてはふさわしくないと思う。
 角川書店は、このてんかん部分に対して、てんかんに対する正しい知 識を与え、てんかんに対する十分な理解がなされるよう指導書等を作り、 現場の教師たちに希望することで、てんかん協会の抗議に応えることに したが、そんなことをすれば、読解が混乱することは目に見えている。
 「無人警察」は読解の教材であって、てんかんの正しい知識を得るこ とを目的としているのでないから、授業や教科書でてんかんに対する正 しい知識を扱う必要はない。
 むしろ、てんかんに対する十分な差別を持って読むことが、読解に際 して必要であり、そのことを意識さえしていれば問題はない。
 つまり、「てんかんの現実とは別個にここではてんかんを読む必要が ある。なぜならこれは虚構小説なのだから」という小説というジャンル の読み方をするのであり、この記述はてんかんに対する差別を持って書 かれているから、その立場で読むべきであるということがわからなくて はならない。
 てんかん協会がしたように、小説の設定に文句をつけたり、小説の設 定に影響を与えようとすることで解決しようとした文部省や角川書店の 姿勢は間違っている。医学的知識やてんかんに対する扱いに問題がある なら、作者と話し合うべきであり、作品の読み取りに関しては、「小説 の設定だから」と注をつければいいのだ。

最も大きい差別を残した文部省
 「てんかんを起こすおそれのある者が運転していると危険だから」と いう一方的な判断や、だからてんかんの人に対しては無断で「脳波を検 査」してもいいのだという論理、「異常波を出している者は、発作を起 こす前に病院へ収容されるのである」という強制処置は、てんかんに対 する差別がうかがいしれる。(II章参照。)
 最も差別がある前半部をそっくりそのまま残して、「テンカン」とい う片仮名を平仮名に改め、後半の「私にはテンカンの素質はないはずだ し」を「わたしはてんかんではないはずだし」に直したことで満足して しまった文部省の判断がよくわからない。

 後半部の書き変えの検討

主人公の考えに干渉
 てんかんを素質で言うことが医学的誤りであるというなら、「てんか んを起こすおそれのある者が運転していると危険だ」というのも、発作 以前に脳波で検査できるというのも医学的誤りである。
 これを設定として許すなら、「私にはてんかんの素質はないはずだし しも主人公の考えで、医学的に誤っていようと余計なお世話だ。  だが、主人公の考えは正し、差別されている社会状況はそのまま放置 したというのが納得がいかない。
 文部省は、主人公の言葉を通して作者の認識の誤りを見たのであり、 前半の状況設定の部分における作者の認識の誤り(てんかんは脳波検 査していい)に気づかなかったのは、まさに片手落ちと言えよう。 (「片手落ち」は、身障者に対する差別語ではなく、「手落ち」という 相手の行為を非難する言葉である。「片手・落ち」ではなく、「片・手 落ち」。)
 仮にてんかんを素質と結び付けていたとしてもそれは主人公の考えで あり、セリフはすべて知識や事実に照らし合わせて正しくなければなら ないということはない。
 主人公のセリフや考えに対し文句を付けるということが、どういうこ とであるかわかっているのだろうか。主人公のセリフが主人公の考えを 示しているものであることは言うまでもないことで、主人公のセリフや 考えを変えさせるということは、中身に対する干渉である。
 つまり、セリフが変わることによって主人公の考えが変えられるとい うことで、作品そのものも変わってくる可能性が出てくる。

どう書き変えられなければならなかったか
 てんかんを素質が問題となる病気と考えていた主人公は、この「私に はテンカンの素質はないはずだし」というセリフによって、自分がてん かんなんかとは全く無関係だということを言っている。それに対して、 てんかんが素質によるものではなく、誰でもいつ起こるかわからない病 気であるという正しい医学的知識に基づいた「わたしはてんかんではな いはずだし」は、一応大丈夫であろうと、信じるというより信じたいと いう気持ちが入ってくる。
 原作では、自分はてんかんと全く関係のない存在として、てんかんを 発見する脳波測定機を頭からはねつける強い根拠となっているのに対し、 改変された教材では、てんかんに対する可能性を否定しないことによっ て、脳波測定機に対する不安を持つことになる。そう読んでもらわなけ れば、てんかんに対する素質の部分を消したことは意味がなくなってし まう。なぜなら、素質という言葉がいけないのではなく、てんかんが素 質にかかわるものと読まれることを防ぎたかったからだ。
 主人公がてんかんに対してどういう考えを持っていようと、読む者が てんかんに対して正しい知識を持っていれば、それは作中人物の勘違い による発言と受け取れるが、読者もまた主人公と同様にてんかんを素質 にかかわると受け取ってしまうことを文部省は懸念したのである。だっ たら、確実にそう読まれなければ、わざわざ書き変えた意味がない
 「わたしはてんかんではないはずだし」を、やっぱり「わたしはてん かんのはずはないから脳波検査は関係ない」と読むのであれば、それは 効果がないのであり、単に言葉をいじっただけにすぎない。
 「てんかんは誰にでも起こりうる病気だから、自分がまだてんかんの 発作を起こしたことがないからといって、いつ何時異常波が出て捕まる かはわからないのだから、脳波測定機を自分には関係のない装置と無視 するわけにはいかないのだが、たぶん今はてんかんを起こしそうには思 わないから大丈夫そうだ」といった不安を抱えながらの信じたいゆえの 肯定文とならなければならない。
 「私にはテンカンの素質はないはずだし」の「はず」と、「わたしは てんかんではないはずだし」の「はず」は意味が異なる。前者は「道理」 を示し、後者は「予定」であり、意識としては正反対である。
 これは「書き換え」ではなく「書き変え」であり、その効果がないよ うであれば、書き変えの失敗である。それがそう読み取れないのは、こ の部分だけの書き変えですましているからである。

成立し得ない書き変え後のセリフ
 原作においてなぜ「私にはテンカンの素質はないはずだし」のセリフ が出てくるかといったら、「最も自分とは関係のないこと」として筆頭 に浮かんだということである。それは、飲んでもいない酒よりも、もっ と疑わしくないものとしてのてんかんだ。
 現在の医学では、てんかんは遺伝病ではなく、誰がいつ何時なるかわ からない病気で、自分とは関係ないとは言い切れない。ましてやロボッ トに捕まるのは、てんかん発作の最中ではなく、「てんかんを起こすお それのある」未然の場合だから、可能性は平等で決して否定などできな いはずだ。にもかかわらず、自分を圏外に置いて安心するのは、論理的 におかしい。これは、テンカンを素質にかかわるものと主人公が認識 しているから成り立つセリフで、素質を言うことがいけないからとそれ を取ってしまった「わたしはてんかんではないはずだし」は、その根拠 はなく、誰もが安心できない状態なのだから、セリフとして成立し得な い。
 「素質」を切ってしまったら、てんかんの脳波検査はすべての人に対 して行われるはずであるから、「酒」や「悪いこと」どころか最後まで ロボットにてんかんの前ぶれを疑われていい、一番疑わしい材料となっ ていかなければならない。それが書かれていれば、てんかんは一部の人 の特殊な病気ではなく、遺伝病ではないということもはっきりさせること になるが、この話はそういう方向に進まないから、あくまでもてんかんは 自分と無関係のものとして登場し、考えから切り捨てるセリフが必要なの であり、それが「私にはテンカンの素質はないはずだし」なのであって、 書き変えた「わたしはてんかんではないはずだし」では用が足りない。 しかも、「わたしはてんかんではない」と根拠もないのに言い切ってしま うことは、逆にてんかんを根拠なく差別していることになる。

見失ってしまった問題点
 素質を残すことよりも、「てんかんではないはずだし」に書き変えた方 が、根拠のない発言となるだけに、てんかんに対する差別がより表れてし まったと思う。
 ここにおけるミスは、「素質」という言葉を取ってしまえばいいと安易 に考えたことだ。
 実はこのてんかんを素質にかかわるものとして考えているということが このストーリーの骨子になっているから、てんかんは自分に関係のないも のとしてその場限りの話題として切り捨てられることが可能なのであり、 もし、素質のことが言えないのなら、てんかんの問題は後半のストーリー とかかわってこなければならず、大幅な書き変えが行われなければ、納得 のいくてんかんの扱いにならないことは同じだ。問題は、表面から文字を 消すのではなく、てんかんに対する扱い方であったろうと思うのだ。
 そもそも、てんかんが対象となるのは、運転時の話だったのであって、 歩行者はてんかんであっても取り締まわれないはずだ。それなのに、「そ うだ。この新型は、歩行者の取り締まりもできるのだっけ。」とてんかん に思いをはせる展開はおかしい。「歩行者の取り締まり」にてんかんや飲 酒が関係するのか。
 主人公がそれを連想するということは、人によってはそれでひっかかる 可能性があるからではないか。つまり、てんかんであれば、歩いていても ひっかかる可能性がある。だからこそ、それを否定することが本人にとっ て意味のあることになる。
 だが、それは同時に、歩行者であってもてんかんが対象となりうること を示してしまう。その誤解を避けたいと思えば、ここにてんかんの連想を 持ち込んでくることはない。主人公の発想としておかしいのだ
 交通の取り締まりであるにしてもないにしても、「わたしはてんかんで はないはずだし、もちろん酒も飲んでいない」と思い出すことは、何の意 味も持たない。
 「何も悪いことをした覚えもない」ことだけが、歩行者としての心当た りとなる。
 てんかん協会はここを「何も悪いことした覚えもない」と助詞を読み 誤ってしまったが、この必要のない部分が無ければ、そういう誤読やそれ による誤解は起こらなかった。
 「私にはテンカンの素質はないはずだし」の「素質」にこだわるより、 「わたしはてんかんではないはずだし、もちろん酒も飲んでいない」の一 文がいるかいらないかということが検討されてもよかった

見落とした問題の数々
 作中人物のセリフだけ突然変えても、作者の考えまで変わっていないの であり、作者の考えはその他の部分で十分主張されているから、てんかん の素質に関する部分が変わったところで、読者の調子は変えられないので ある
 その点で、この素質を言うセリフの部分より、それ以前のてんかん記述 の方に、作者の考えや意図が反映されていると思い、その部分が放置され ている以上、成果は無く、単に素質という言葉を排除したにすぎない。こ れは差別語を自主規制する発想と同じで、直接指摘される材料は無くなっ たが、その言葉の使用に至った作者の考えまで変わるものではないといっ た、表面上のやりとりにすぎない。

 てんかんを素質と結び付けた記述よりも、もっと指摘すべき内容は随所 にあり、主人公の勘違いを挙げるならば、脳波と思考波は違うから、てん かんを発見する脳波測定機で思考波の乱れを心配する必要はないと言って あげた方がよい。そうすれば、ロボットに思考内容を検査されるというオ チが、てんかんとは何のかかわりも持たず、ゆえに何もてんかんに対する 配慮をしようとした教材において、心配しながらてんかん記述を使用する 必要がないことに気づく。

別の対応策
 作品に実際何が書かれているかということより、何が書かれていてはま ずいかということが優先されるなら、危険を予期しながら「てんかん」と いう言葉を使うことはないだろう。
 先ほど試みたように、「てんかん」を他の架空の病名や発作といった一 般事項に置き換えても小説の流れとして問題はない。しかも、これはてん かんに対しては誤った記述でも、架空の病名や発作といった症状であれば、 それは問われない。
 「なぜこの脳波検査の対象となるのが「てんかん」であるのか」という ことが、てんかん関係者の言い分であるはずだ。無断で脳波が検査され、 発作が予期されたら病院へ収容される対象に「てんかん」が選ばれたこと が十分問題なのだ。それは、「てんかんだったら危ないからそうしていい」 という論理が無ければ生まれない発想であるし、読者もすんなりと読めな いから。多くの読者がすんなりと読んでしまうことによって、「てんかん はこういう扱いをされて当然」と認識してしまうことを「てんかんに対す る差別を助長し、誤解を広める」(「声明文」)と心配するのである。
 「てんかんは交通違反の取り締まりの対象の一つ」と言えるのは、差別 者の冷静さで、「「てんかん」という言葉そのものにインパクトを感じ、 「かんてん」という文字を見てもピクッとしてしまいます」という日本て んかん協会常任理事・松本了氏の発言を聞くと、確かに何もここに「てん かん」という文字や言葉を出さなくてもいいのではと思える。ストーリー の展開においても主題とのかかわりにおいても「てんかん」である必要が 特に感じられない今回の場合は、それこそ「学習指導上の配慮」として、 「てんかん」を書き変えてもいいのではないか。

 この「てんかん」は、現在の医学的知見とも異なり、それこそ差別問題、 医学情報など、小説の読み取りとは関係ないところでその効果や理解を考 慮しなければならないことが多く出現しすぎる。限られた授業時間(三回) の中で、読解のほかにこれらに触れ、正しい理解を求めることは、教師、 生徒の双方にとって負担が大きすぎる。
 「てんかん」という言葉を使うがために、これだけのリスクを担うので あれば、「てんかん」を架空病名か発作といった一般症状に置き換えて、 「てんかん問題」をこの作品から排除してしまった方が学習がしやすいだ ろうと思う。
 何も国語の教材で差別問題やてんかんの知識を学ぶ必要はない。「無人 警察」がそのことをテーマとしてないのだから、それは扱わなくてよいと 考える。

「てんかん」という言葉を残したことが、教科書会社や文部省に差別が あった証拠である。
 てんかんの記述を第三者として読んで作品の設定としておもしろいと 感じ、あるいは何も感じないことが、てんかん関係者にとっては考えられ ないことである。
 その感覚がすでにてんかんに対する差別である。その意識はそのままに、 「学習指導上の配慮」と称して表記といった細かい点を可能な限りいじ ろうとすることは、説得力がない。

なぜ「無人警察」を残す方向にならなかったのか
 何が本当に必要な「学習指導上の配慮」なのか。
 検定基準の中に「特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見 解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと」「話題や題 材が他の教科及び科目にわたる場合には十分な配慮なく専門的な知識を扱 っていないこと」「健全な情操の育成について必要な配慮を欠いているな ど学校教育全般の方針に反しているところはないこと」「特定の個人、団 体などの権利や利益を侵害するおそれのあるところはないこと」があり、 てんかんの記述は、これらに抵触するものと思われる。
 「無人警察」は、高校に入学して最初に読む教材であり、この作品から 正しい形でてんかんに対する差別を読み取ることも、高一のレベルでは高 度で、本当に正しくできなければ危険で、「生徒がその意味を理解するの に困難であったり、誤解したりするおそれのある表現はないこと」という 基準に従ってあきらめた方がいいかもしれない。
 ただ、「てんかん」が出てこなければ、これらの問題は生じないのだか ら、「てんかん」という言葉を出さずに「無人警察」を教科書に残す案が 検討されてもいい。
 「無人警察」を教材として使用したい理由が、「教科書で差別表現を扱 う」という試みでなく、(そのチャレンジであり、それを通す方針であっ たのなら、それはそれで画期的なことであったと思うが、)別な理由であ ったようだから、その「理由」まであきらめてしまうことはない。
 筒井氏が「てんかん」を消すことに反対したのであれば別だが……。


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Last updated Dec.4.1998