何だかおかしい 筒井康隆「無人警察」角川教科書てんかん差別問題

                     jepnetホームページ版 第四部

これは、近代文藝社から1995年4月に同題名で出版された本を著者佐藤めいこ氏 のご好意により全文ホームページ版として掲載しているものです。許可なく 複製、転載はできません。表示はできるだけ原本に従いましたが、表示の制限 のため傍線は斜体、波傍線は太字の表示に置き換えました。誤字、脱字等お気づ きになりましたら、までお知 らせ戴ければ幸いです。

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IV.「無人警察」をどう読むか

    −「無人警察」には何が描かれているかを検証する−  
 
 小説を書くことと、読むことと、教えることは、一つの作品に異なる意義 付けをする作業のようだ。
 例えば、作者が期待するようには読まれない、読み取ったようには教わら ない。
 つまり、作品は作者の手を離れたら、作品としての独自の読みが可能にな り、楽しみの読みとは別の教材としての読みが存在するようになる。自分が 読んだ小説を習うと、よくわかったり、がっかりするのはこのためだ。

 「無人警察」は教科書のページ数にして十三ページ、その六倍近い指導内容 が教科書の指導書に掲載されている。
 その読みは緻密で体系的である。それゆえに「そういう小説である」と理 解してしまいがちだが、「そういう小説だったろうか」と振り返ると、違う ような気がする。
 この小説はそれほどきっちりとした重いテーマを持って綿密に構成された 作品ではないのではないか―。それが私の違和感である。
 読みの可能性を広げ、あるいは制限することによって、そこには違う世界 が誕生する。「無人警察」を前に、どういう世界を自分がつかめるか、それ が読み解く楽しさでもある。
 その世界は実体以上でも以下でもなく、実体に一番近づいたとき、初めて 実体が明らかになるのであろうと思う。実体が見えたとき、その読みは正し かったと評価したい。

主人公に問題意識はない
 「無人警察」がどういうストーリーかと言うと、高度に文明、機会化され た未来社会に住んでいた主人公が頭の中をチェックするロボット警察に自分 が捕まってみて、人の潜在意識をも見透かし管理しようとする社会に驚き、 恐怖し、抵抗を感じるというもので、いつの間にか、個人の内面まで支配が 可能になっている事態に疑問を呈している。
 そしてそれを可能にしたのは、科学技術の進歩でもあるが、最も重大なこ とは人間の問題であった。つまり、交通事故を未然に防ぐ安全対策だからと いって、てんかんの脳波の検査を疑問を抱かず実施させてきたこと、犯罪防 止や犯人逮捕のために思考波の乱れをキャッチする新型ロボットを許容して いたことが、取り返しのつかない管理システムを可能にしてきたということ だ。
 問われるべきは科学の進歩ではなく、それを使用する人間、いや自分に直 接不利益がかぶさってこなければ疑問を持たない無関心で自分勝手な大衆の 姿だ。自分ですらわからない潜在意識を他人に知られてしまうことによる自 己の崩壊の未来よりも、一つ一つを見逃し他人事にしてきた傍観者的態度の ツケがもたらす現実レベルのおそろしさに注目したい。プライバシーの侵害 やロボットへの非難を叫んでも、もう遅いのである。すべては相手の手中に あり、虚しい遠吠えにしか響かない。
 だがそのことに主人公は気づいていない。
 主人公のしていることは、腹を立てているだけである。自分が心当たりが ないのに連行され、ロボットに潜在意識を探られたということを怒っている 。プライバシーやアイデンティティーの問題を訴えているのではなく、叫ん でいるうちに潜在意識にあった警察やロボットに対する反感が口をついて出 てきたにすぎない。
 主人公には思想がない。てんかんの脳波検査に関しても、新型ロ ボットの登場に関しても何も意見を抱かない。そして今回自分の潜在意識が 探られ連行されても、そのことを怒っているだけで、かつててんかんの人 ちが同様な扱いを受けてきたことに思いをはせるということがない。
 そのことによって読者も主人公と同様に、脳波や思考波の検査を見過ごし てきたという主人公の罪に気づかないかもしれない。人間は自分とかかわり が無ければ考えず、我が身にふりかかってこなければその意味がわからない ほど馬鹿で身勝手な者だということなのかもしれない。
 主人公が自分が潜在意識まで探られたとわかった時点でさえも、脳波や思 考波のことを話題にしない以上、主人公の中でまだそれらと結び付いてはい ない。だから、その矛盾をこっけいがるのは深読みになろう。

主人公に差別意識はない
 角川の指導書では、連行された部分を、「「わたし」は自己の感情(思想 ・信条)の内容によってはそれが、取り締まり(ということは、すなわち差 別されるということでもある)の対象となることを知るのである」と思想や 潜在意識によって取り締まわれることを「差別」として扱っており、またて んかん部分に出てくる脳波測定機に対しては、「自分がかかわらないから差別 (排除)に対して無批判・肯定的だった」と、てんかんに対する社会の扱い を「差別」と見て、その両方を「他人への差別行為を、自分に関(ママ)わ りのないこととして見過ごしていた「わたし」は、自分の(無意識の)感情、 いわば思想・信条によって差別され、社会から排除されるべき人間となった のである。これが「わたし」の陥った皮肉な運命である。」と結び付けてい るが、その両者において差別は意識されていないと思うし、その両者が結び 付くほど、てんかん部分は主人公にとってもであるが、作者にとっても意識 されていないと思う。
 てんかんに関する部分を差別的行為として描くのだという意識があったの なら、クライマックスにおいてもっと明確な形で差別間題が論じられている はずで、そうでないことから、おそらくこの小説は差別を扱ってはいな い
 人を差別することの何たるかを語る気などさらさらなく、誰でも突然立場 が逆転することがあるのだということ、そのとき人は思いのほか感情的にな って我を忘れて取り乱してしまうものだという逆転の発想を描いたにすぎな いのではないか。
 科学技術の発達によって、人間の内面によって差別する社会が到来し、自 分が社会から排除される人間であったと知るのが結末ではなく、潜在意識ま で探れるようになったら、自分の気づかない点で捕まることになるかもしれ ず、それは嫌だなあという一つのシミュレーションストーリーではないか。

II章で述べたように、「てんかん」は、脳波測定機の延長線上としての思考 波検査を無理なく登場させるための小道具にすぎず、ここでてんかんを描く ことに目的を持ったり、伏線としてはいないと思う。そういうことを考えな いから出てきた不用意な記述であり、主人公も後にも先にもそのことは何も 考えていない。その「てんかん」部分に作品上の意味を持たせることは、無 理がある。
 指導書では、「特に脳波測定によって人間を交通事故予防のために病院へ 連れて行くことに無批判であった「わたし」が、自分の思考内容や無意識の 内容によって警察へ連行されたことに反発したり怒ったりすることの矛盾を 読み取らせる。」と指示があるが、この矛盾に注目することは必要だろう か。
 たまたま第三者が読んでみて、自分が不当な扱いを受けたら怒るのに、て んかんの人に対して不当な扱いをしていたことに主人公や作者は気づいてい ないということに気づくにすぎない。その二つを矛盾と見る発想は娯楽とし ておもしろいが、たまたま結果的に符合することをもって重要視することは 避けなければならない。矛盾に気がついて、こっけいに思うのは読者で、主 人公をなおざりにした解釈であると思う。
 主人公はクライマックスにおいても、自分が内面の潜在意識によって差別 されたとは思っていない。もし、このことが「差別」で由々しき問題である と主人公が考えるならば、ロボットではなく、ロボットにその機能を持たせ た人間の考え方に攻撃が向いたはずだ。

主人公が感じたものは恐怖
 角川の指導書の「主題」の項には、「自分の実態は社会のありかたに反感 を持つ不適応者であり、警察から取り締まられる可能性を持った人間であっ たと知らされ、自己も知らなかった自己の真実の姿に衝撃を受ける。」とあ るが、主人公のショックは自己にはなかったろうと思われる。なぜなら彼は、 自分の今後を憂うのではなく、ロボット社会に目が向いているからである。
 主人公が問題としているのは、ロボットが人間以上の能力を持ってくる恐 怖であり、そのロボットに人間が管理・支配されてしまうのではないかとい うおそれである。
 新型ロボットはすでに人間の潜在意識を探るといった「自分の能力を必要 以上に発揮してしまった」ということをやってのけた。警察はESP機構を備え させてみて、意識レベルを探らせる実験のはずだったのに、ロボットが勝手 にそれ以上のことをしてしまったのである。それは警察の取り締まりの対象 としたことではないから、たとえデーターの中に「警官やロボットに対する 根強い反感」が見付かったとしても、「お引き取りいただいても結構です」 と許されたのである。
 現段階の主人公は、まだ取り締まわれる存在ではない。それは「潜在意識 を探って取り締まる」ということが決められていないからだ。だが、技術的 に可能なことはわかった。ロボットが自己判断能力を持っていることもわか った。
 ロボットが人間を追い超し、人間がロボットに支配されることは目に見え ている。しかも人間と思った取調官はロボットだった。そしてそれをコント ロールしていた刑事もロボットかもしれない。
 この警察が「無人」だとしたら、すでに完全なロボット社会である。主人 公がロボット反対運動を起こしてももう遅い。なぜそこまで事態は進行して いたか。それは無関心だったからである。

ズレた人間の発覚
 未来の管理社会においてすでに役人として君臨する主人公は、自分が取り 締まわれる側に立とうとは思いもかけない。自分は現在のシステムを受け止 め、それになじまない人たちを「ズレた人間」として見下していた。てんか んなんて自分とは全く縁がない。悪いことも自分はしないから常に潔白であ る。
 「身に覚えなんか何一つない。土−−すべての取り締まりに自分は該当し ない存在であると自信を持っていて取り締まりの内容を考えてみることもな かった。そんな自分であったのに、潜在意識が露わにされてみると、警察や ロボットに対する根強い反感が存在していたという。
 自分でコントロールできる世界において主人公は自信があった。だから新 型ロボットに目を付けられても、「ロボット巡査がわたしを解放してくれる ように、心の中で彼の存在を認めてやろう」と自己洗脳を始めた。だが、潜 在意識を問われてはなすすべがない。こんなに順応しているかのように見え た主人公も、その内実においては抵抗因子があったのである。
 思えば、その日の朝、歩いて出勤したということも完璧に順応しきってい る人の行動ではなかった。「始終車に乗っていると運動不足になると思った」 こと自体が、便利な未来社会の欠陥を指摘するものである。彼もまた、はな から「ズレた人間」だったのだ
 その主人公は、今となっては無駄なロボット批判を始める。そして限りな くズレていくことで、初めて自分の中に闘うべき敵を発見する。「笑えなか った」主人公は、「どことなく、ロボットくさかった」ことに怪しさを見い 出していた。彼は明らかに今までの自分やその他の多くの大衆とは異なって きたのである。潜在意識によって知らされた自己ではなく、自分が発見した 新たな自己によって。
 この「無人警察」の単元のテーマは「自己との出会い」となっているが、 その自己をどこに見い出すかとしたら、私は「笑えなかった」主人公に、今 までにはなかった闘う存在としての新しい自己を見たい。潜在意識に現れた 自己は、もともと持っていた自分の一面にしかすぎず、現実に怒りを示し、 疑問を感じた自己こそが、自分が新しく出会った新しい自己であると思うから。

「無人警察」は否定的未来論ではない
 主人公は、作者は、この未来社会をどう見ているのだろうか。指導書で は、「この社会全体を作者は否定的に描き出している」と明言しているが、 肯定していないことは確かだが、否定的であると言い切れるか。
 このストーリーは、未来社会に順応していると思っていた主人公が、潜 在意識に反感を持っていることがわかっただけで、「実態は社会のありか たに反感を持つ不適応者」(指導書「主題」)とするほどではないと思う。
 この日から突然主人公は社会のありかたに反感を持ち不適応者となるの ではなく、反感や不適応因子は順応していると見える人の中にも常にある もので、それが今日頭在化したにすぎない。
 二十世紀の人間は肺臓がスモッグで真っ黒けだったというのは、その悪 環境に適応して生きた証拠である。適応するとは、内部に全く問題を引き 起こさないのではなく、内部に非常に問題を取り込んでしまうことかもし れず、それにもかかわらず、目に見える反乱を起こさないことによって見 過ごされているだけなのだ。その実態は肺臓が真っ黒けだったりする。主 人公も、反乱を起こしそうな因子を抱え込んで、気づかないでいたにすぎ ない。適応していると思っている人ほど中身はわからないというのが二 十世紀人の適応能力のエピソードから連想されていい。  肺臓が真っ黒になるおそれを言う人があったら、真っ黒にまでならな かったのかもしれない。主人公がロボット批判を始めたというのは、未来 を否定的なものにしないための一歩である。作者は、未来社会もそこにい る人間も、その二面性を描いたのであって、否定、批判しているもので ないのではないか。

てんかんの取り締まりを批判的に読む誤り
 指導書は、てんかんを取り締まりの対象としていることと潜在意識を探 る新型ロボットの存在を「この小説では否定的、批判的に見られていると 明確に考えるべきである」と指導しているが、作者はその社会の現実を取 り出して見せただけではないか。
 もし、てんかんの取り締まりの部分が、その行為に対して批判的に、否 定的行為として読めたとしたら、そこですでにこの社会の欠陥や危険性を 暴露しているわけで、クライマックスで主人公が社会の実態を知って驚愕 する場面が、効果的でなくなる。てんかんの部分では、その取り締まりを 主人公はむしろ肯定的に見ていると読み流し、読者も主人公と同様好まし いシステムであると勘違いしておくことによって、後に、自分の住む社会 の想像を超えた事態に、主人公と同様の驚きを体験できることと思う。
 主人公を外側から客観的にながめるよりも、主人公になりきって事件を 体験する方がスリルがあっておもしろくはないか。
 この小説がおもしろいのは、事件前と後の主人公の態度に落差があるこ とだ。その落差が大きければ大きいほど、ジェットコースターのように衝 撃は大きくなる。事件前には未来社会の欠陥などみじんも感じさせない方 が主人公の気分に忠実に読め、その方が後で振り返って落とし穴に気づい ていなかったことを読者も主人公と同罪で冷笑できる。これはあくまで個 人レベルでの発見と楽しみで、発展的な論議の話題として登場すべきで、 はじめから読みを指定されることは望ましくないと思う。
 てんかん部分に関しては、差別表現であると抗議があったから、てんか んの設定も「小説中の架空の設定」で「現在の医学的知見にも一致しない」 ことや、そのことから「「脳波」も現代の「脳波」と考える必要はない」 ことなどが指導書に書き込まれ、「叙述を事実と考えたり、「てんかん」 に対する偏見や差別的態度をとらないように生徒を指導する」ように心配 りがなされている。これを徹底させるには、いくら小説上の設定とはいえ、 その扱いを肯定的に書いているとは言えないのかもしれない。だが、その ために「否定的・批判的に見られている」と読ませることは、本末転倒と いう気がする。
 てんかん部分に執着し、実際のてんかんが誤解なく受け取られるよう に配慮することが、この小説のおもしろさを半減させてしまうかもしれな い。

可能性としてのシミュレーション
 「無人警察」は、未来社会の制度や人間に対する批判を書いたというよ りも、ありうる一つの可能性をシミュレーションしてみたのではない か。人間が持つエゴイズムがいかに社会を取り返しのつかないものにして いくか−。科学的に可能だからといって、人の内面を調べようとした り、自分に関係がないからといって見過ごしていたり……。
 崖っぷちに立たされなければ自分の問題として見ない怠惰や愚かさを皮 肉に描き出し、ただ、今はまだ潜在意識が取り締まりの対象となってはい ないことで、まだ間に合う時期だと救いを持たせている。救いがあるとい うことは、そうならないようにしようという前向きな意見であり、主人公 が怒り、低抗することで、自分の中に問題意識を感じることができたとい うことは、解決に向かう一つの方策なのではないか。

 主人公はズレた人間になったかもしれない。だが、ズレた人間なくして は、未来社会は暗黒社会になってしまう。健全な社会にとってズレた人間 の存在は必要であり、自分の中にそのズレがないと思っていることこそが 本当は一番危険なことだということを、過去の主人公が身を呈して見せて くれた。
 社会のシステムに順応した者が成功し、優越感を持つ。しかし優越感と 劣等感は裏返しの関係で存在し、自己を支える根拠にはなり得ない。それ が崩れたとき、真実の自己の姿が見えたと取れば立ち直れないが、意識世 界のほかに無意識世界があるように、真実の自己など一面的に存在するも のではなく、周囲とのかかわりの中で常にどうなるかわからないと思えば、 過去の自分に甘んじていてはいけないし、自己が崩壊されそうになったら、 また自分で作り上げていけばいい。それは一瞬「ズレ」てしまうかもしれ ないが、そのズレを持たず順応していくことの方がどんなに危険かという ことを、この「無人警察」は読み取らせてくれるものと思う。

現在への指針
 「無人警察」は未来小説であるが、未来を語っているのではなく、現時 点を問うている。
 六十年代後半の輝かしい未来論が飛び交う時代に、その陽面に疑問を持 った作者もまた、ズレた人間なのかもしれない。
 だが、ズレた人間であることを主人公は悲しまない。そのズレが、社会 の問題をはっきりとつかんだと思ったからである。主人公は刑事を「ロボ ットくさい」と自分の感覚で嗅ぎ取った。新たな主人公の出発を予感させ る前向きな結末であると思う。

 この小説に描かれている未来社会は悲観的なものだが、それは人間に原 因があり、人間の責任である以上、現在の我々には回避できるということ である。でも私たちはその努力をしているだろうか。
 自分がズレた人間になることをおそれ、順応することに懸命なあまり、 自分を見失って社会や制度に組み込まれ流されていることは多い。
 てんかん部分をさらっと読んでしまった読者は、未来社会の大衆とすで に同じである。
 「無人警察」に描かれているようなことは、確実に進行している。「無 人警察」がおもしろいのは、描かれた未来社会の事件が突拍子も無い妄想 ではなく、今にもありえそうなことだからである。おもしろい分だけ現実 の危険度は増していると言えよう。

まとめ・その1 「無人警察」の差別をどう見ればいいのか
 指導書の読みは、てんかんに対する扱いを作品設定上の「差別」である ととらえ、逆にてんかんに対してこう差別することがいけないといった教 育にもつなげられるようになっている。
 小説の中に存在する差別を、主人公たちがてんかんに対する差別を容認 していたから潜在意識まで取り締まわれる社会になってしまったのだと教 訓的に扱い、作品を成立させるために必要な表現として位置付けることで 正当化した。
 てんかん部分をそう読むことによって、小説の中に差別が書かれていて も、それはてんかん関係者を傷つけるものではないという文学的判断であ る。
 だが、理論はそうでも、現実にその読みが徹底して行われるとは限らな いし、現実にてんかん関係者が傷つかない保証はない。それよりも、その 指導者のてんかん部分の読みが作品の読みとして妥当であるとは思わず、 そのことが作品全体の読みに大きな異なりを与えることを憂う。
 III章で述べたように、あのてんかん部分は、主人公と読者のてんかんに 対する差別意識を前提に成立する。
 作者が、ここでてんかん差別に対して無批判な例として出してきている のでもなく、読者がそう意識して読むことも期待されていないにもかかわ らず、てんかんに対する差別を書いたものとして読み取ることは、作為的 でありすぎる
 もし、この小説が「差別」を扱おうとしたものであったら、その内容は 不明瞭で浅薄すぎる。差別を扱った作品と読むことは感心しない。

まとめ・その2 教室で「無人警察」の差別をどう扱えばいいのか
 もし、この作品における差別を素通りしたくないのなら、読解を規定する のではなく、読後感といった話し合いの中で意見交換をすることによって、 自分たちの問題として考えさせればいいのではないか。
 潜在意識を探られてプライバシーの侵害だと怒った主人公は、実はてんか んに対して同様のことが行われていたことには気づいていず、最後まで気づ いてはいなく、それを読んでいる読者も主人公と同様てんかんに対する扱い が差別であると意識せず読んでいたということに問題を感じなければならな い。
 誰もが差別であると認識しているのならば、それはもはや問題ではなくな り、差別と気づかないでいることが差別問題における一番の問題であると知 るいい例であると思う。
 このてんかん部分を読んで、てんかんという病気を誤解し、脳波検査をし て病院送りにする扱いを肯定的に理解し、傷つく人がいて、はじめてこの記 述がどういう意味を持っていたのかが明らかになるのであり、周りの反応や 当事者の様子を見て、差別を書くことの是非が語られることになろう。  議論や話し合いが適切に行われれば、その中から、なぜ「無人警察」が問 題になったのか、なぜ差別を書いてはいけないと規制するのかなどの現実の 問題に対して自分たちで解答を見つけていけるのではないだろうか。
 この作品にてんかんに対する差別があることは確かで、誤解や偏見を助長 するおそれも十分あり、教室で傷つく生徒もいるだろうと思う。それは、 「てんかん」部分を残したことで覚悟しなければならず、それを防ごうとし て無理をせず、生徒たちの誤解や反応を見ることによって、この問題を生徒 たちとともに考えていったらいいのではないか。  断筆宣言や差別語問題のきっかけとなった時勢的な作品でもあるし、自分 の中にある差別や差別を書くことの問題が具体的に見える生きた教材となる のではないか。その方が差別とは何で、どうしなければならないかと机上で 教えられるより、ずっとわかりやすく正しく認識できるのではないかと思う。

まとめ・その3 文学は差別をどう扱えばいいのか
 すべては両刀の剣で、扱い方に左右されるところが大きい。
 文字で差別を書かなくても差別は現実に存在するし、差別を書かないこと がその解決となるのでもない。
 今回の例のように、差別を書いてはいけないとする方針の方が病的で、作 家が作品の中で差別を書くのは、むしろ要求されていいと思う。それを読む 側、受け取る側の態度が教育されるべきで、書き手が書かないように指導さ れるべきではない。望まれるものばかりではなく、毒となり、害となり、悪 となるものを打ち出していくことも作家の役割の一つと思う。
 それらに適切に対処する力を身に付けてこそ、豊かになれるのではないだ ろうか。問題を与えないことによって回避するのではなく、難題を体験する ことで、書き手も読み手も成長していくべきだ。
 差別を書き、討論をすることが大事で、その結果やっぱり書くべきではな かったと思ったらやめればいいのである。
 今の自主規制のように、なぜ書いてはいけないのかわからない不本意のま ま書くのをやめても問題が解決していくとは思えない。きちっとボールを投 げ、きちっと受け止める姿勢を、両方が持つことが前提であってほしい。
 果たして、世間は、作家は、変われるのだろうか。今回の「無人警察」事 件が単なる騒動に終わるか、文学における差別問題に影響を与えるものとな るかは、今後にかかっている。


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Last updated Dec.6.1998