なんだかおかしい 筒井康隆「無人警察」角川教科書てんかん差別問題

                     jepnetホームページ版 第五部

これは、近代文藝社から1995年4月に同題名で出版された本を著者佐藤めいこ氏 のご好意により全文ホームページ版として掲載しているものです。許可なく 複製、転載はできません。表示はできるだけ原本に従いましたが、表示の制限 のため傍線は斜体、波傍線は太字の表示に置き換えました。誤字、脱字等お気づ きになりましたら、までお知 らせ戴ければ幸いです。

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IV.作品としての「無人警察」を考える

    −読解の教材として適しているか検証する−  
 
 てんかんで話題になったことから、「無人警察」はてんかん部分にばかりとら われて、冷静に一つの作品として見ることが忘れられているように思う。
 「無人警察」はどういう小説なのか。まず、一つの作品として評価するこ先決 であろう。「無人警察」が何を書き、どう読まれることが適当なのか。
 そして読解の教材としてはどうか。「無人警察」は読解の教材として適してい るから採り上げたと教科書編集側は主張する。だが検証はできていない。
 私たちがすべきことは、「無人警察」はどういう作品であるのか、読解の教材 として適しているのか、それを自分の目で確かめることだ。

 あなたは「無人警察」をどう読んだろうか。
 読んだ後に、次の設問に答えてみてほしい。
 教科書や学習現場では扱わない読みを示していくので、「異端」と称する。正 当派の読みでは気づかなかった盲点が見えてくるかもしれない…。

「無人警察」の読解問題

(1) 冒頭の街の光景を絵にしてみよう。
(2) エア・カーは、今の車と比べて、どんな点が改良された車だと思いますか。
  エア・カーは、今の車と比べて、より安全なのでしよいか、危険なのでしようか。
(3) 主人公は、人間とロボットのどちらに信頼を置いていると思いますか。
(4) 作者がこの作品で最も言いたかったことは何でしよう。
(5) 一番新しいロボットの特徴を書きなさい。
(6) 「わたしは笑えなかった。この刑事もどことなく、ロボットくさかつたからである。」
  いう末尾の文章から、主人公のどういう心情が読み取れますか。
(7) 作者は「テンカン」に対し、どういうイメージを持っていると思いますか。
(8) あなたはこの小説のどこがおもしろかったですか。
  
  
  
異端的読解法   
(1) 冒頭の街の光景を絵にしてみよう。               
 オフィス街、巨大な建物ぞいに歩いている主人公。
 歩いている人間はめったにいず、みんな自分のエア・カーを乗りまわしている。
だから、歩道は車道から区切られてはいない。
 道ばたに一定の間隔で立っている下気道。
 道路のあちこちに立っている酸素供給装置(ポストと同じ格好)。
 町かどの街路樹にもたれるようにして立っている交通巡査(ロボット―服を着て、 頭上にアンテナが八本ついている)。

 酸素供給装置は、ポストと同じ格好をしているので描ける。だが下気道のイメージが 浮かばない。
 よごれた空気を処理する装置で、道ばたに一定の間隔で立っており、ゴミ箱と間違 えて紙クズなどを投げこむ人間がいる。
 「下気道」という名称が、下水と対比されて出てきただけあって、「下」というイ メージを与える。
 「投げこむ」という動作も、あまり高いイメージを与えない。だが、吐いたばかり のタバコの煙をシュウと吸いこむというのは、頭上にあるイメージがしないか。
 また、スモッグの解決として煙突の煙などを吸うのであれば、高い必要がある。
 さあ、高さはどのくらいで、どういうシステムのものだろうか。
 ポスト型の酸素供給装置は、ポストと間違えて投げこまれた手紙を飛び出させるほ ど強い風力で酸素をふき出しているのだとして、下気道がタバコの煙をすぐさま吸い こむ吸引力を持って、しかも排気にすぐ対応できるほど近距離間隔で立っているとし たら、こんな所は歩けない気がする。
 下水道に流れ込むのは汚水だけとは限らない。と同様、空気中の汚ない成分だけを 吸い込むのは難しいと思われる。酸素も吸い込んでしまうと思うから、酸素供給装置 を設置する必要があるのであるが、空気は酸素だけではないから、生物が安全に生存 できる状態が保たれているか疑わしい。

 この装置が何のために作られたかというと、スモッグやガスを無くすためなのであ ろうが、この社会はエア・カーの時代である。
 空気を吸い込み、空気をぶき出して走るということから、無公害車として登場して いるのではないかと思われる。
 つまり、エア・カーの排気がよほど問題になるほどでなければ、オフィス街で空気 を汚すものは、それこそタバコの煙くらいなものであり、歩道もないくらい歩いてい る人間がめったにいない道端に、電柱のごとく立っている下気道と酸素供給装置の存 在の価値がわからない。

 さらに街路樹があるという。これはどこに立っているのだろう。車道しかない道に ある街路樹。下気道や酸素供給装置と並んで植わっているのだろうか。

(2) エアー・カーは今の車と比べて、どんな点が改良された車だと思いますか。
  エアー・カーは今の車と比べて、より安全なのでしようか、危険なのでしようか。

 エア・カーは、空気の噴出力で地上から浮いて走り、小型で軽い。しかも安価である ことから「だれでも乗っている」とある。
 これは、安全なのだろうか、危ないのだろうか。
 これが危なくないと判断されるのであれば、交通の取り締まりが強化される必要が ない。
 この未来社会は、交通巡査ロボットにより、交通違反が厳しくチェックされている ようだ。
 速度違反、飲酒運転、テンカンを取り締まる。速度違反、飲酒運転―このニつは 現在もそうなので抵抗はなく読まれるが、「テンカン」という病気を違反の対象とし ているところに、読者は取り締まりの厳しさを感じる。

 実際は、車の走行状態や運転者の質が現在とは異なるのだから、現在の感覚で交通 状況をとらえてはいけないはずなのだが、読者は全く現在の車や交通事情を思い浮か べて読み進めることになる。
 それは、作者が未来の状況を描いていないからである。
 小型で軽く、浮上して走る車の危険性や、安価だからといってだれでも乗る社会的 なこわさに触れていないし、その状況から生じるはずの新たな交通規制にも目を向け ていない。
 だから、取り締まりのくだりにおいてエア・カーのイメージはもはやなく、現在の 車と車社会が出現してしまう。
 そのうえで、作者のイメージに準じて、読者も交通違反をとらえていくことになる。
 てんかんを取り締まるほど、交通違反の対象として収容するほど、交通の取り締ま りの厳しい社会であると。
 自分の意志で制御できる速度違反や飲酒運転と違って、病気であるてんかんを、交 通違反の取り締まりの対象とし、収容という強制行為が取られる記述に対し、今回の 教科書掲載に当たって、てんかんに対する差別と人権無視が日本てんかん協会より訴 えられたのだが、小説の読者としてこの記述からつかまなければならないのは、てん かんに対する差別があるかどうかということではなく、脳波測定機が登用されている という事実である。ここは、脳波がチェックされるということの問題の伏線にすぎな い。

(3)主人公は人間とロボットのどちらに信頼を置いていると思いますか。

 判断を示している記述を拾ってみる。

 (ア)は、何の心当たりもないのにロボット巡査に捕まえられそうになったときに主 人公が心に思ったことで、(イ)は、ロボット巡査に強制連行されて行き着いた警察所 での感想。

 彼の心の中には矛盾がある。
 人間は誤ることがあるが、ロボットにはない。だが、わかってもらえるのは人間だ。
 これは、ロボットの完璧性より、人間の柔軟性に期待する思いである。
 巡査がロボットであるのと人間であるのと、防犯にどちらが効果的かと言うと、旧型 が銅鉄製のボデーがむき出しであるのに対し、新型が服を着せていることから、人間の 方が効果的なことがわかる。
 結局ロボットは人間の代理であり、最後の判断は人間が行い、信頼しているのは人間 ということになる。

(4) 作者がこの作品で最も言いたかったことは何でしよう。

 ロボットの能力を認めていた彼は、自分の身が危なくなってはじめて、その能力に疑 いを持った。
 ロボットが人間の思考内容にまで入ってきたとき、その危険性を感じた。
 人の思考や潜在意識までも探ることが可能になることのこわさ。それを行使し、利用 することの危険性。
 そのことによって、取り締まわれるどころか、それをおそれて、人が考える自由を無 くしてしまったり、人が思考すること自体をやめてしまわないかという人類的なおそれ。
 人間が人間であるために一番大切な「考える」ということを奪ってしまう恐怖の未来 を実現しようとしている体制に対して、主人公は叫ぶ。
 「人間以上のロボットなど作るのは神への冒涜だ!」

(5) 一番新しいロボットの特徴を書きなさい。

もちろん最新型は取調官ロボットで、顔色を変えたり、くねくねと曲がるやわらかさを 持ち、まるで人間のようだ。いや、最後に登場する刑事もまたロボットかもしれない…。

(6)「わたしは笑えなかった。この刑事もどことなく、ロボットくさかったからである。」 という末尾の文章から、主人公のどういう心情が読み取れますか。

 ロボット信仰が破れて、人間に救いを感じた主人公が、人間と思っていた取調官がロ ボットであったことを知らされて、そのロボットを操作していた刑事を、主人公は信頼 できるのか、できないのか。  「ロボットくさい」というのは、どういうことなのか。

 ロボットの存在は認めたくない。  人間とてロボットかもしれず信じきれない……。

 主人公は笑わなかった。「ロボットくさい」と判断することで盲従することはやめた。
 自分で考えること、抵抗することをしなければ社会体制にのみ込まれていく。その危険性を主人公は自覚した。
 この小説の冒頭部分で、作者は、ポスト型の酸素供給装置にいつまでも手紙を投げ込 む人間を、「ズレた人間はいつの時代にもいるものだ」と評した。  「ロボット反対運動を起こしてやる」と叫ぶ主人公もまた、体制に乗り切らない「ズレ た人間」になろうとしている。

 「ズレた人間」とは何か。
 体制に疑問を感じず、押し流されてしまう扱いやすい大衆に対峙する言葉だ。
 作者は「ズレた人間」を馬鹿にするのではなく、何かつっかかりを感じて一石を投じ ていく存在として、少なくとも自分はそうありたいと行動しようと思っている。  ただ、それは、入れても入れても出てくるポストに投げ込むといった徒労にすぎない かもしれないけれど、そういう人がいなければ、ポストと同じ形にしたのがいけないの だと気づくこともないのだから、それはあながちムダではないといった自嘲と正義感が 含まれているように思う。

最後の部分の解釈を、角川教科書の編集委員の方々は、次のように悲観的にとらえてい るが、私はそうは思わない。

 主人公はどうしようもない力に押しつぶされてしまうのではなく、前述のような理由 で、押しつぶされることを拒否する意志を持ったととらえたい。  そうは読み取れないだろうか。

<彼らの解釈>
「鏡地獄・この刑事もどことなく、ロボットくさかったからである。

 ロボット巡査に警察に連れ込まれたわたしは、取調官ロボットを前にして不満をぶち まける。人間だと思い、安堵したからである。しかし、わたしのことばに興奮した取調 官は、ロボットの正体をあらわしくねくねと床にくずおれる。刑事があらわれて、「ど うです、よくできてるでしょう?」と言うが、わたしは笑えない。この刑事もロボット に思われたからだ。この社会では、鏡地獄のように、ロボットがロボットを操作し、そ れをさらに上級のロボットが操作するという仕組みとなっているのだ。ここにあるのは、 多層のロボットの、しかし一律の価値観の専制である。怒りや抗議が、ロボットの組み 合わせの作る柔構造に吸収されてしまうのである。「明日からロボット反対運動を起こ してやる」とわたしは叫ぶが、運動など決して起こらないような仕組みになっているの だ。<この作品のかぎりでは、救いのないつきはなされたような感じを、生徒はもつだ ろう。その認識を逆にバネとして、現代社会のさまざまな問題点に生徒の問題意識を誘 いたい。…>」(岩間輝生)

 「このような新型ロボット巡査も人間型の取調官ロボットや刑事ロボットも、冒頭で 「わたし」が十分にその有り難みを受容していた未来社会のさらに発展した科学技術の 成果である。しかし、皮肉なことに今や科学技術の発展に対し、「わたし」はそれを受 け入れることができず、自分がかつて軽蔑した「ズレた人間」と同じ種類の人間になっ てしまっていることに直面するのである。しかも、自分は科学技術の発展の生みだした ロボットに対する反感を潜在意識の中に持っている。すなわち、科学技術の発展に反感  ― 否定的感情を持つ人間であることが分かり、そのために警察に逮捕・連行される ことを怒ることによって、この社会の体制にとってかえって自分が逮捕・連行されて当 然の人物であることを証明してしまうのである。冒頭で「わたし」によって理想的なユ ートピアとして描かれたこの高度に科学技術の発達した未来社会は、「わたし」の経験 を通して、実は個人の内心の自由が存在しない−−ということは個人が存在しないとい うことである ― 管理社会、恐怖社会、暗黒社会であることが分かるし、その社会の あり方を受容できず、怒りと恐怖を抱いている人間もいる社会であることが分かるので ある。
 このように、この作品全体は未来の高度に科学技術が発達した社会の、あるあり方 (他のあり方も想像しうるから)に対して否定的であることが分かる。これが、筒井康 隆の思想、態度、倫理性なのである。したがって、この社会の内部の事物、出来事は結 局は否定的状況を構成するために設定されているのである。作品中の語り手の「わたし」 が冒頭で、あるいは中間で、この社会のあり方に肯定的であっても、彼は最後に変わる のであり、自己の真の姿を最後に認識するのである。」(渡辺正彦)

       角川書店発行「国語科通信」No.87、('93・9・10発行)"緊急特集 「無人警察」をどう読むか"における、新版「国語I」編集委員岩間輝生氏・渡辺正彦氏 の文章より抜粋。

小説を読むとはどういうことか

欠陥だらけの設定
 (1)で取り上げた下気道の記述は、架空の事象としてだけではなく、「ズレた人間」 を引き出すためのものであったとも思える。
 下気道は、作者の勤務先が清掃局であることから生じた話題である。
 下気道の内容が、この小説に何の影響もなく、単なる冒頭の話題で終わってしまう ゆえ、この内容に問題があろうと無視してかまわないのだが、ここで作者が書きた かったのは、主人公が清掃局員、つまりお役人だということである。
 社会における権威の象徴として警察が取り上げられていることはわかるが、それに 反感を抱くに至った主人公もまた権力側の人間として描いている。
 警察に連行された彼の服装を見て(出勤前の服装で役人であることがわかるという 設定がよくわからないが、未来はそういう制服社会なのかもしれない。)取調官があ わてて立ち上がって、「お役所の方ですね。これはどうも。ロボット巡査が、何か失 礼をいたしましたか」と丁重に応対するだけでなく、主人公も上に立った物の言い方 をする。
 主人公が役人である設定が、この小説にとって重要であるかどうかはわからないが、 とりあえずここの関連として、冒頭に明言してある。
 前述の(1)(2)の検討から明らかになったように、おしなべて描写の部分は、現在あ るイメージに頼っているきらいがり、SF小説としての独自の描写としては不十分であ る。
 だからそのことによって、イメージを明確に描けないとか、出てくる物や設定が筋 に影響するほどの意味を持っていないとか、設定自体に納得がいかないなどの事態が 生じてくる。

 今回差別があるとして問題となったてんかんに関する記述も、そのいいかげんさと いうか、あまり考えていない書き方と安易な設定によって、ひっかかったと思われる。
 交通の取り締まりの厳しい社会を描くためにてんかんを持ち出した。このことの安 易さは、てんかん協会でなくとも小説の読者として指摘したい。
 てんかんという言葉を持ち出すことで、手っ取り早く脳波検査の正当性や逮捕の必 要性を認めさせようとしていて、まさにそれこそがてんかんに対する差別であると訴 えられているのだが、作者も教科書会社側も認めたがらないようだ。
  

  

てんかん部分の扱い方


 「てんかん」部分の記述に関しては、II章で詳しく触れたので、ここでは書かれたも のをどう読み取るかという作業に入る。
  

 「テンカンを起こすおそれのある者が運転していると危険だから、脳波測定機で運 転者の脳波を検査する。異常波を出している者は、発作を起こす前に病院へ収容され るのである。」

 ここには、てんかんを起こすとなぜ危険なのか、てんかんとは何なのか、何の説明 もない。
 それは、多くの読者がその説明を必要としないと思ったからに違いない。
 「テンカン」という言葉を出すことによって、本来ならば病気の説明やそう対応す ることの正当性など、書かなければならなかったことを省くことができた。それは、 作者と読者の間に共通するイメージを利用したから可能になったことだ。だが、その イメージこそが不当であると抗議が起こったのだった。

 例えば、現代の医学で、薬を服用することによって発作をかなり抑制することがで き、てんかん持ちだからといって発作を起こすとは限らないし、発作時以外は全く普 通の生活が送れるということが常識となっていれば、だれもが引き起こしうる心臓マ ヒや脳卒中に比べて発作発生率が多いとは限らないてんかんを取り締まりの対象とし て出してきても説得力がない。なのに多くの人にとって、そこがすんなりと読めてし まうということが、読者の多くもまた作者と同様の誤ったイメージに立脚している証 拠ということだ。
 作者にてんかんに対する差別や偏見があるか以前に、読者に同質のものがなければ、 作者はここで見捨てられているはずである。そうでなかったということは、この部分 をすんなりと読んでしまう読者こそが責められていい。
 この小説が発表されてからご一十年間、このことが問題にならなかった、そして今 回文部省検定を通り多くの識者たちもひっかからなかったという、まさにそのことが 問題なのであり、それがまた今回多くの高校生たちに誤ったイメージが伝えられてい くのかと思うと、懸念する日本てんかん協会の気持ちはよくわかる。

 では、てんかんに対する事実が伝えられ、てんかんに対する正しい理解が得られた ら、どうなるのだろうか。
 従来のてんかんのイメージが払拭されたとき、その後のストーリーがスムーズに入 ってくるだろうか。  てんかんを発見する脳波測定機の必要性が薄ければ、そんなものの設置自体が不自 然で、それによってたまたま主人公がひっかかったというのが作為的になりすぎる。 てんかんの発見という別の目的のはずの脳波測定機が、人間の頭の中の思考内容まで 察知できるものであったという意外性のおもしろさが生きてこない。
 つまり、てんかんの正しい説明を脚注や授業ですることによって、この小説を従来 どおり読むことはできない。

 どっちみち、この小説を味わうには、作者の持った、そして多くの読者が持ちうる 従来のてんかんイメージに立脚していなければならない。
 読者は作者の規定した世界に取り込まれ、その世界の真実に従うことが小説を楽し く読むことになる。その虚構の楽しみ方を学ぶのでなかったら、この小説を取り上げ る意味はないと思う。この小説を味わうというのは、現在のてんかんの事実を知った うえでも、作者の描いた「テンカン」のイメージを踏まえることである。

おそれず、
(7)作者はテンカンに対し、どういうイメージを持っていると思いますか。
という問いを投げかけたい。そのとき、「テンカンを起こすおそれのある者が運転し ていると危険だから、脳波測定機で運転者の脳波を検査し、異常波を出している者は、 発作を起こす前に病院へ収容される」対象としててんかんをとらえることができてい なければ、後の「わたしにはテンカンの素質はないはずだし」も生きてこない。
 このてんかん部分を、大筋と関係ないと読みとばすのではなく、小説の展開のおも しろい始まりとして、しっかりと押さえておかなければならない。
 そのことによって、てんかんに対する差別や偏見を植えつけるのではなく、作者が そういうイメージとしてここで「テンカン」を出してきたということを小説の読み取 りとして行う。
 ただし、そのイメージが作者のイメージであるかどうかを混同させてはいけない。 小説の設定として描いたイメージに作者批判をすることはルール違反であるし、また 作者が弁明する必要はない。
 ただ「書いてあること」を読み取ることが、読解である。作者の倫理を問うたり、 自分の考えと照らし合わせてみることは別のジャンルで、それをちゃんと分けて行え ば、この小説のてんかんの記述におそれを抱く必要はない。
 大切なのは、小説を読むことと、作者や読者の私生活を一緒にしないことである。 そのことをしっかり教えることによって、どんな教材が現れてもおそれることなく、 生徒も教師もだれもが小説を読むことができるのではないか。
 そのことの基本が、この教材で教えられれば、この教材の価値は思いのほか高い。
  

小説の読み方
 しかし、よく日本てんかん協会だけしか抗議してこなかったと思う。
 つまり、この小説にクレームをつけようとすれば、てんかんに関する記述だけが誤っ ていたり不十分だったり人を傷つけるおそれがあるのではないということだ。
 例えば、警察が役人にペコペコするイメージで描かれているのが心外であるとか、 ポストと間違えて投げ込むのが「年寄り」であることが老人を馬鹿にした表現だとか、 超能力研究者はこんな悪用を考えているわけではないとか、言いたい立場の人はほか にもいるはずだ。
 この清浄な空気をめざす社会でタバコを吸うとは何事だと嫌煙家は批判するだろう し、下気道があるからいいのだと愛煙家は正当化するだろう。そして、ウソ発見器が 他人の腕につけていて機能するとは思えないとか、交通違反を発見するロボットが人 の後をついて移動してしまったら、本来の任務はどうなるのか、警官やロボットに対 する反感は下意識ではないだろうとか、エア・カーが走る道路を歩行者が歩いている ことの方がてんかん患者の運転より危なそうだとか、ポストと間違えるようなポスト 型の酸素供給装置にするのが間違っていると気づく人だっているに違いない。
 それをいちいち申し立てないのは、小説とわきまえて虚構の世界を楽しんでいるか らというよりは、それほど小説を真剣に読んでいないからにすぎない。
 この作品が発表されて後三十年近くもクレームがつかなかったということは、小説 とは通常その程度の読まれ方であるということだ。
 作品の欠陥をあげつらって目くじらを立てて読んでもおもしろくないだけだから、 通常はしない。だからといってそれに甘んじて書く方もその程度でいいかといえば、 こうして指摘を受けてしまうのかもしれない。
 しかし、綿密に計画されて欠陥なく書かれたものがおもしろいかというと、必ずし もそうとは限らないから、完全であることが、必要条件でも十分条件でもない。

 読者は作品を読むことが許されているのであって、その作品の指導はできない。
 てんかん患者を交通の取り締まりの対象とする前に、エア・カーが安全に走行でき るシステムを考える方が先だろうとか、タバコの煙が上に上がらなかったらおいし くないだろうとか、そういうことは言えないのである。
 清掃局が空気の清掃も担当するのだと理解し、ポストがポストとして機能してい るうちに、酸素供給装置をよりによってポストと同じ形状に作ったことに疑問を抱い てはならない。
 読者は書かれているものを、書かれているものとして読むしかない。

 日本てんかん協会が、「無人警察」にてんかんに対する差別や偏見があり、誤解さ れるおそれがあるというのであれば、そうに違いない。作者もまた、読者に読みを指 定できない。

小説を教えること
 この作品が教材となったからには、この作品を教えなければならない。
 III章で検証したように、教材としての「無人警察」は、筒井氏の書いた「無人警察」 とは異なる。
 だから、筒井氏の「無人警察」を教えるのではないではない。書き改められた「無人 警察」を読み解く。
 では、教材としての「無人警察」で何を教えるのか。

 角川教科書が意図した小説の読解とは何だろう。主題をつかみ、小説を味わうとは どういうことだろう。  角川書店側は、「「無人警察」は、取り締まりに重点を置く未来社会を風刺してい る小説」(「回答書」)で、未来社会の管理体制に対するおそれや批判という主題が 明確にうち出されているということが、「無人警察」を読解の教材に推した理由であ ると説明する。
 果たして「無人警察」は、そういう作品だったろうか。確かにそれも描いているが、 それを描いていると言えるだろうか。
 まして、それだけを描いたとは言えない。「無人警察」に描かれていることはいっ ぱいあり、作者の言いたいことも一つではない。
 その優劣はつけがたいというより、つけるものではないように思う。
 作者が何を言いたかったか、何のためにこの作品を書いたかは、出来上がった作品 と同じとは限らない。
 それなのに、ただ一つの解答に向かって読みを規制することは、「小説」というも のを正しく理解することにつながらない。
 大仰なテーマの読み取りは、もしかしたら、小説というものに対する姿勢を間違わ せてしまうかもしれない。小説は、単純におもしろいと感じることが、最良の読み方 かもしれないから。
 小説とは、明確なテーマを持って書かれるというよりは、漠然とした要素が重なり 合って一つの作品と成っていくことが多い。その一つ一つが明確な意図を持って記述 されているとも限らないし、その一つ一つが一つの目的に向かって集約されるとも限 らない。
 つまり、結果としてそう出来上がったのであって、そこから逆に作者の言いたかっ たことを推測したり、何かを読み取ろうとするのは、決して小説を正しく読むことに ならないし、おこがましいような気がする。
 この作品のおもしろさは、未来社会に対する風刺や文明の未来に対する恐怖といっ たことではなく、単に人間だと思っていたのがロボットだったという、どんでん返し かもしれない。
 もっともらしいテーマを掲げたり、作家論や作品論やテーマを導き出すことはでき るが、こんなに深読みしてくれるなと、作者は恥ずかしがるかもしれない。

 小説を読むとは、作者が書いたことを、ただそれぞれの立場で享受し、反応すれば、 それでいいのではないか。
 その判断基準が、例えば、てんかん協会が示したような助詞の見誤りといった単な る誤読であれば指導の効果はあるが、差別と感じたり傷つくという人に対して、差別 を書いたつもりはないとか、そういう読み取りをしないよう指導するというのは、正 しい指導とは言えないだろう。
 一つの小説から学び取ることは一つではなく、一つの小説を読むことで、小説とい うジャンル全般の読み方をマスターすることはできない。
 小説は一つ一つ、意図するものも表現方法も読み取り方も異なるものであるから、 むしろそのことを知るために、「どれにも共通した読み」ではなく、「それぞれの読 み」を経験させることの方が大切なのではないか。「この作品をどう読むか」という 体験である。だとしたら、この「無人警察」からしか学べないことを学習するといい。

 「無人警察」は、教材として特異な作品であると思える。
 と言うのは、私がしてきたように、いろいろな欠陥を無視しないと、肝心なことに たどりつけないからである。
 この手の欠陥が少ないものが教材に選ばれることが多いようだ。それは、この点を 突かれると、教師の言葉が説得力を持って響いてこなくなって、授業がやりにくくな るからだ。
 この小説を扱うなら、その点を思いっきり覚悟して、枝葉末節にこだわって討論を するのもおもしろいだろうし、作者の真意や裏を想像することも楽しいかもしれない し、それこそ、てんかんについて差別があるかどうか検討し、差別表現や差別につい て話し合うのも悪くはない。
 てんかんにおける正しい理解を授業で十分与えようとする指導は、小説の授業とし ては邪道であるが、これらのテーマとは関係ない部分にとらわれることは、邪道では ない。
 そういう読みは、通常行われるからである。
 授業だけが特殊な読みをするというのは、おかしい。

 小説の読みはかなり自由でいいことや、小説自体正しく読まれることを目的として 書かれているわけではないということを、肌で感じられればいいのではないか。
 その意味では、この「無人警察」は、逆に小説というものの正体を知るにいい教材 かもしれない。
 少なくとも、小説から学びうる可能性を、教えることによって、制限したり、否定 したりすることだけは、避けたいと思う。

 最後に聞きます。
(3) この小説のどこがおもしろかったですか。          

<終>

  

  

おわりに

 「終わりよければすべてよし」という言葉があるように、物事は結果で判断されがちだ。
 「無人警察」を教科書から削除せず掲載すると決まれば、「無人警察」に問題はなかっ たのだと思い、一転して「削除」になれば、やはり問題だったのだと思われる。そして 「教科書からの削除」というその結果は、危ないものは載せないほうが無難だという自 主規制に拍車をかけそうである。少なくとも、筒井氏が自ら「削除」を決めたというこ とで、自主規制と闘っていく側は戦力をそがれた気がしただろう。
 理由はどうであれ、結果だけが一人歩きをするのが現実で、結論が出たらそれで終わり と内容はうやむやになりがちだ。
 この事件はうやむやにするにはもったいないくらいの内容を持っていると思ったこと が、この本を出す動機である。

 発端となった抗議事件を、私は「筒井康隆無人警察角川教科書 てんかん差別問題」と名付けた。その名のとおり、ここにはまさに、筒井 康隆個人の問題と、「無人警察」という作品の問題と、角川書店の編集制作の問題、教科 書という存在の持つ問題、てんかんに対する扱いの問題、差別意識の問題、と実に多くの 問題が絡んでいた。
 この事件が起きるには、作家側にも、作品側にも、角川書店、文部省、そして日本てん かん協会側にもそれぞれ問題があって、原因を探ってみればみるほど、起こるべくして起 こった〃問題提起〃であったと思う。差別とは何なのか、教科書とは何か、小説とは、文 学とは、教育とは、表記とは、作家とは、人権とは…。
 このさまざまなことに明確な答えが得られないことが、結局この事件に明解な結論を出 せない原因であるのだろうと思う。逆に、この事件を機会にこれらを考え見直してみるこ とによって、次なる問題解決に結びつくかもしれない。

 たった一つの具体的な事件が、これだけ多くの重要にして漠然としすぎていてどこから 手を付けていいのかよくわからない問題の、まさに考えなければならない点を突いている チャンスはないのではないか。そこをえぐり出せば、これらの難題に一つの突破日を見い 出すことができるかもしれない。
 その各々はあまりにも大きなテーマで、考えることすら遠慮してしまいそうだが、でも、 誰もが自分の中にある種の結論を持っていなければ、文学や教育や出版にかかわる者とし て何の決断も下せない、キーポイントとなる必須科目であると思うことから、取り出して みんなの前にぶちまけてみようと思ったのだ。
 せっかく出てきた問題を見逃すことなく解決していくことによって、次はどの分野にお いてもワンランク上の検討ができたらと思う。

 私は、文学を楽しむ者として、文学が制限されたり改変されたりすることをあるべきで ないと思うし、教育を見つめる者として、読みや表記は強制されるべきでないと思うし、 出版にかかわる者として、何をすべきで何をすべきでないかということを常に悩んでいた い。
 今の教科書の常識からいくと、この「無人警察」が教材として適切であるとは言わない が、それは裏を返せば今の教科書の作り方や、教材とは何か、何を教えるかということに 問題があるのかもしれない。
 現在当たり前に行われていることが正しいとは限らない。それを覆すことはエネルギー のいることだが、考えてみる価値はありそうだ。

 文学も差別問題も、教育も教科書も、表記も読解も、もっともっと問われてほしい。
 よりよい結果を生むために、考える資料となれば幸いである。
 

 

 

主な資料
・「無人警察」本文

・抗議の声明文
・抗議文に対する回答書(角川書店、'93年8月5日)
・日本てんかん協会に関する覚書(筒井康隆、「噂の真相」'93年9月号に発表)
・断筆宣言(筒井康隆、「噂の真相」'93年9月号に発表)
・角川書店高等学校教科書「国語I」に対する指導書('94年版、角川書店発行)
・文部省発行「義務教育諸学校教科用図書検定基準、高等学校教科用図書検定基準」 ('89年、文部省告示第43号)
・筒井康隆とてんかん協会の往復書筒('94年9月6日〜10月26日にかけて二通ずつ計四通、 「創」('94年12月号)に発表)
・「無人警察」の教科書から削除決定記者会見('94年11月7日)、
          朝日新聞記事('94年11月8日)、
          東京新聞記事('94年11月8日)他。
 

 

 

― お願い ―
 この本を読まれて、どのような感想をお持ちになったでしょうか。          
 この本の中には、多分野の問題点を提示しました。
 どれも、できるだけ多くの人と語り合って、今後を見つめていきたいと思っています。 
 ご意見、現場からの報告、ご感想等、何でもけっこうですからお寄せください。    
 この本がどなたと出会えたか、お名前とご職業だけでもお知らせいただけたら幸せです。 

佐藤めいこ

 
送り先→〒891-0112鹿児島市魚見町108-8 角川教科書問題係 宛


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Last updated Dec.4.1998